祝・30記事突破!!!
去年の5月にこのポータルメディアを立ち上げて以来細々と続けてきたが、ついに今回投稿してきた記事数が累計で30記事を数えるまでになった。
これもひとえにいつもこのメディアにお付き合いいただいている読者の皆さんのおかげである。
心からの感謝を贈らせていただきたい。
さて、今回は30記事記念ということで、いつもとは少し趣向の違った内容をお届けしていきたいと思う。
テーマは「僕が写真を撮り続ける理由」。
僕が本格的に写真を始めてから今年で12年となる。その間色々なことがあった。一時期は写真から離れざるをえない状況もあったが、それでもめげずに起き上がり、写真の道をただひたむきに進み続けてきた。
それもすべてはある「情熱」のためだった。
節目となる良い機会なので、今回は僕が写真を撮り続ける理由の根源であるその「情熱」について語っていこうと思う。
すべては過去の呪縛を断ち切り、新しい未来へと羽ばたいていくために。
「世界はそれでも美しく、希望に溢れている。」

不遇続きの少年時代
僕と写真の関係性を理解していただくためには僕の少年時代まで話をさかのぼる必要がある。
僕は日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた典型的なハーフとしてこの世に生を受けた。生まれは東京都の港区だが、2歳のときに千葉県の市川市へ越して以来、高3まで少年期をそこで育ってきた。
幼少の頃は温かい家族に囲まれていたのでそれなりに幸せに過ごしていた記憶がある。しかし、僕が幼稚園に通い始めてから状況は一変した。
同級生達からひどいいじめにあったのだ。元々内気な性格だったことやハーフという異質な存在であるということが理由だったのだろう。
いじめは日に日にエスカレートしていき、小学校に進学したりクラスが変わったりしてからも続いていった。
持ち物を隠されたり、腫れ物に触るような扱いをされたり、罵声や暴力を投げかけられたり。受けたいじめの内容を思い返せば枚挙にいとまはないが、僕は幼少期でもう既に人間がどれだけ残酷で醜い生物なのか思い知っていた。

ただ、唯一の救いだったのは母の存在だった。僕がいじめられているのを見かけると、問答無用でいじめっ子たちを怒鳴りつけて助け出してくれたのだ。まさに幼少期の僕にとって母は救世主そのものだった。
しかし、その救世主は僕の元からある日突然姿を消すことになる。両親の離婚だ。それによって母は僕と幼い弟と妹を父に預けて、家から出てしまったのだ。小学校3年生の秋の出来事である。
このときの僕はあまりのショックに何が起こったのか理解しきれていなかった。ただ一つ確実に分かっていたのは、自分を守ってくれる救世主はもういないということだった。
それからの僕は寂しさを紛らわすように勉強に打ち込んでいった。それ以前はクラスで下から数えた方が早い程度の落ちこぼれだったが、徐々に実力を上げていき、最終的にはクラスのトップを狙えるまでの力を身に付けていた。
中学校に進学すると、勉強だけではなくスポーツにも打ち込むようになっていた。いじめっ子などの理不尽な暴力に抗える力を身に着けるために、剣道部に入って鍛錬にも打ち込んでいた。

まぁ、ここでは新たに部活の先輩から後輩いびりという名のいじめに遭うことになった。それが大きな問題となり、一時期は部活動を活動停止にまで追い込むほどの状況を招いてしまうこともあった。
しかし、剣道部を3年間続け抜いて段位を取得したこともあり、完全に文武両道…とは言わずとも、いくらか自分に自信が持てるようには成長できたと思う。
中学校の卒業式にかつてのいじめっ子たちが「まさかあのときの鼻垂れ小僧がここまで成長するとは思わなかった。」と認めて詫びてくれたことは、今でも心に深く残っている。
中学卒業後、僕は幕張にあるマンモス高校に進学した。そこで僕は中学時代に培った学力と運動力を最大限に発揮して活躍していた。統率力があるということから学級委員長に任命されたり、ハーフとしての国際感覚を生かして海外留学生との文化交流を指揮したりもしていた。

もちろん全てがうまくいくわけがなく、多少のつまずきや衝突はあった。それでも絵に描いたような「優等生」として高校生活をそれなりに謳歌していた。
だがしかし、そんな日々は高3の初夏に終わりを告げる。父が事業に失敗したことで多額の借金を背負うことになったのだ。
当然のことであるが、当時の僕は大学進学を目指して受験勉強に打ち込んでいた。考古学や比較文化の研究職を目指していたこともあり、東京大学を本気で狙っていたのだ。
ところが、父の倒産で家計が大いに傾いたことで、大学進学を断念せざるを得ない状況に陥ってしまった。
奨学金を利用すれば大学に行けるじゃないかと思う方もいるだろう。しかし、状況はそんな生易しいものではなかった。受験生である僕自身が働きに出なければ家計が維持できないほどまで、僕らの家族は追い詰められていた。(気分を害したら申し訳ないが、)奨学金を借りてでも大学へ進学できるのは、当時の僕からすると本当に贅沢なことだったのだ。
父が手を尽くしてくれたおかげで高校は変わらずに済んだが、住む場所は変えざるを得なかった。住み慣れた故郷である市川市を離れて、現在も住んでいる市原市に引っ越すことになったのだ。

そこには馴染みの風景はどこにもなく、幼少からの友達と呼べる存在も誰1人としていなかった。まさに、無実の罪で島流しにでもあったかのような気分で、それまで自分を育んでいた要素全てが奪われたような気持ちだったのを覚えている。過去も未来も全て奪われたような絶望の中で失意の日々を過ごしていた。
そして、受験生にとって正念場である夏を迎える時期に僕は受験を諦め、それからほどなく、家計を助けるためにバイトを始めていた。それから卒業までの半年間、バイトに通いつつ高校に通っていたが、次第に授業に顔を出さなくなり、図書室と保健室で時間を過ごすことが多くなっていった。
バイトに通いながら僕は自らの不幸を呪った。それ以上に、僕より学力も意欲も劣るくせに大した苦労もせず(当時はそう思っていた。)、やすやすと大学進学への道を実現して先へ進んでいく同級生たちが憎らしく、そして羨ましかった。
最後の半年間は感情がほとんど欠落していたので、正直あまり覚えていない。しかし、それでも高校自体は何とか卒業できた。確かに卒業はできたのだが、僕に残ったのは高卒という最終学歴だけで、僕の進路は完全に閉ざされたままだった。
カメラとの出会い
高校卒業してからの数年間、僕はバイトに通いながら、図書館で様々な分野の本を読み漁って独学する日々を過ごしていた。地理学、歴史学、考古学、文化人類学、宗教学、比較文化学、生物学、地学、語学などなど。先の見えない不安の中、忙しいバイトの日々の合間を縫って訪れる図書館は、僕にとって学びの場であると同時に貴重な憩いの場でもあった。
そんなある日、僕の運命を変えることになるとある雑誌と出会う。それが世界的な地理学情報雑誌の『NATIONAL GEOGRAPHIC(ナショナルジオグラフィック)』だ。
そこには有名な観光地はもちろん、名前を聞いたこともないような秘境も含めて、世界各地の様々な場所を紹介する記事が美しい写真とともに掲載されていた。どの写真もまるでその場にいるかのような臨場感が感じられ、何よりその作品としての美しさに圧倒され、毎号ただただ夢中で雑誌のページをめくっていたのを覚えている。
『NATIONAL GEOGRAPHIC』を読み続けるにつれて、僕の中にとある思いが生まれた。
「世界にこんな素敵な場所があるんだったら、僕も実際にその場所を訪れてみたい。そして、自分のカメラでその絶景を撮ってみたい。」
それから僕はより一層バイトに打ち込むことになった。自分のデジタル一眼レフカメラを手に入れるためである。奇しくもこの頃には家計が少し落ち着いてきたので、稼いだバイト代の一部を自分の貯金に回すことができるようになっていた。そのため、少しずつだが、一眼レフを買うための資金を貯めていったのである。
そして、24歳の春。僕は念願だった人生初の一眼レフカメラ:Nikon D80を手にしたのである。

D80は当時CMにキムタクが出演していたことでも有名だったミドルクラスのAPS-C一眼レフだ。防塵・防滴などの特別な機能はなかったが、当時としては画質と機動性のバランスが非常によく取れており、僕のようにレンズ交換式カメラを初めて使う入門者からも人気があった。価格も高倍率ズームレンズとのキットが10万円そこそこで入手できたのも魅力だった。
初めての一眼レフを手に入れた僕は、水を得た魚のように自宅の近所や幼少期を過ごした市川市の街並みを撮影して回っていった。前章に載せた写真はそのときのものだ。非常に未熟な出来なので、今となっては恥ずかしいが(笑)。
いずれにしろ、そうやって僕は実践的にカメラを学びつつ、独学で写真の知識を身に付けていった。露出やら光線状況やら、最初はわからないことばかりだったが、それがかえって新鮮で楽しく、夢中になって写真に打ち込んだことを覚えている。
初めての海外遠征
D80を入手してから数ヶ月経った頃、僕は初陣とも言える機会に巡り合う。離婚以来別居していた母が国際免許の定期更新のために実家のあるフィリピンへ帰省することになったので、ついでに僕も付いていくことになったのだ。10年以上ぶりの海外旅行である。
かくして僕は、フィリピンのマニラにあるニノイ・アキノ国際空港に降り立った。フィリピンは小学校1年生のときに最後に訪れて以来、約18年ぶりの訪問だった。
空港の外を出ると母の弟である叔父が迎えにきてくれていた。フィリピンでは叔父の案内のもと首都マニラを観光し、その後は母の実家があるラ・ウニオン州のバワングを拠点にルソン島北西岸にあるサンフェルナンド、バギオ、ビガンなどの街を巡った。

世界遺産に登録されている観光名所もいくつか回ることができた。

久方ぶりに訪れるフィリピンは目にするもの全てが新鮮で、だけどどこか懐かしく、必死にカメラのシャッターを切っていたのを覚えている。

この時の僕の写真の腕はまだまだ未熟で、フルオートから卒業してプログラムオートを使い始めた程度のレベルだったが、海外の街をスナップ撮影する楽しさを存分に満喫していた。そして、このフィリピン旅行を通して、旅行写真家を本格的に目指そうと強く心に決めたのである。
心の還る場所
フィリピンからの帰国後、ほとんど間を置かずして僕は次の旅行計画の立案に着手した。次の行き先はドイツのミュンヘンである。
僕は『ドラゴンクエスト』の大ファンなのだが、その世界観を彷彿とさせるドイツの街並みには以前から強い関心があった。また、毎年末のクリスマスシーズンに各地で開催されるクリスマスマーケットの美しい光景についても伝え聞いていたので、ぜひとも自分の足で訪れて写真を撮ってみたいと思ったのである。
それからの半年間はバイトに勤しんで旅行資金を貯めつつ、ドイツ語をNHKのラジオ講座で学んで準備を進めていた。そして、全ての旅支度が整った僕はドイツへと旅立っていった。25歳の冬のことである。
初めて訪れるドイツは見るもの全てが衝撃だった。日本のどこでもなく、半分故郷のフィリピンでもなく、目の前には完全なる異世界が広がっていたからだ。それと同時に、念願だったこの場所に辿り着くことができた自分がとても誇らしかった。
ドイツには約2週間滞在していたが、その間はミュンヘンを拠点にフライジング、フュッセン、シュヴァンガウなどの町を巡った。

ドイツの旅では興味が引かれたものほぼ全てにカメラを向けていたので、2週間で合計2000枚ほどの写真を撮影した。写真の腕はまだまだ未熟だったが、その分フットワークを生かして印象的な構図の写真が撮れるスポットを広く探し歩いたおかげで、様々な光景に出会うことができた。

加えて、ドイツ人の優しさに触れられたのも印象的な出来事だった。拙いドイツ語を話す異国人だったにも関わらず、行く先々で出会った人たちは僕のことを快くもてなしてくれた。悲惨な少年時代を過ごしてきた僕にとって、人の温かさに触れられるドイツという国はまさに心の休まる安息地だったのだ。

ドイツから離れる際は非常に名残惜しかった。できれば帰国したくなった。ずっとこの国に滞在していたかった。だが、現実的にはそうも言ってられない。そこで僕は近い内に必ずまたドイツに帰ってくると強く心に誓って日本へ帰国したのだ。
しかし、それから現在に至るまでの10年以上、僕はドイツに一度も帰れていない。日本に帰国した直後から僕の運命が大きく狂い出したからである。
破滅へと誘う絶望の足音がひたひたと近づいていた…
無間地獄
ドイツから帰国した後、僕は再びバイトに勤しんでいた。次はドイツを拠点にしてヨーロッパを広く周遊してみたいと思っていたので、その軍資金づくりのためだ。
しかし、それからほどなくして未曾有の経済危機が襲った。世界中を大不況に巻き込んだ2008年のリーマン・ショックである。
当然ながらその余波は僕らの家族にも及び、家計を直撃した。再び僕は家計を支えなければいけなくなり、海外旅行どころではなくなってしまったのだ。
このままでは夢が叶えられないと危機感を抱いた僕は、収入を増やすために週末起業を始めることになった。バイトの傍ら、空いた時間を使ってサイトアフィリエイトやポータルサイト運営などのビジネスを進めていた。
しかし、実践していたノウハウはどれも全て使い古された時代遅れのものばかりだったこともあり、結果的にはほとんど稼げなかった。そればかりか、貴重な資金を価値のない情報商材に無駄に浪費してしまったのである。
不幸はさらに続く。
数年に渡る胃ガンの闘病の果てに、大好きだった祖母が他界してしまったのだ。このときの僕はこれ以上はないかと思うほど失意のどん底に陥った。ビジネスで成功を収めたら祖母孝行もしたかったのだが、結局何もできず、その機会すらも永遠に失われてしまったことで、自分の無力さを心の底から呪った。
それからしばらくして、さらなる激震が文字通り列島全土を襲うことになった。2011年3月11日に発生した東日本大震災である。
当時僕は市原の自宅におり機材のメンテナンスをしていた。震度5強程度だったので普段よりも強い揺れは感じたものの、東北と違って壊滅的というほどのレベルではなかったため、地震による直接的な被害はあまり被らずに済んだ。
しかし、震災に端を発する経済的な影響は徐々にだけど確実に僕ら家族の家計を蝕んでいった。震災による計画停電や自粛ムードによって世間全体の消費が滞ったこともあり、僕や家族が勤める会社の収益は大幅に激減し、給料が日に日に少なくなっていったのだ。
このままでは海外へ旅行撮影に出かけることはおろか、生活を維持することさえもままならない。僕は一向に良くならない将来に対して大きな不安と焦りを抱いていた。
そんな矢先に僕はとある「ビジネス」と遭遇してしまう。その「ビジネス」とは、自分の友人や知り合いにサプリメントの購入を勧誘することで紹介料を得るというものだった。しかし、今にして思えば、それは「ビジネス」とは名ばかりのもので、合法的にネズミ講ができるように巧妙に形を変えただけの「詐欺」だった。
そもそもの始まりはSNSだった。以前からmixiでドイツ関連の話題で親しく交流していた知り合いからパートナーとして一緒に仕事をしてくれる仲間を集めていると打診があり、その仕事を斡旋している会社の本社がある六本木で詳しい話が聞けると案内されたのだ。
不審に思っていた僕だが、自分の目と耳で真実を確認せずにはいられないジャーナリスト気質が災いし、実際に六本木の本社を訪れることになってしまった。そして、そこで現れた説明者の口車にまんまとハマってしまい、それほど間を置かずしてその「ビジネス」に加わるという自分史上最大の愚かな決断をしてしまったのである。
思えば、ここから本当の地獄は始まったのだと思う。

それから約5年間の長きに渡って僕はその「ビジネス」の活動に従事していた。しかし、結論から言うと、当然だがその「ビジネス」が実ることは決してなかった。それどころか、多額の借金と深い心の傷を負うことになった。
当初は少しやって上手くいかなかったらすぐ辞めようと思っていた。しかし、活動を進めるにつれて紹介者やその上位に存在する「成功者」と呼ばれる人たちからひどく洗脳されていったこともあり、「もう少し頑張れば成功して夢が叶えられるようになる」と意固地になり、なかなか抜け出せずにいた。
途中、勤め先の財務状況が悪化したことでリストラに遭ったこともある。それからほどなくしてプロカメラマンになろうと活動を始めるが、その「ビジネス」に携わっているという理由で様々な妨害を受け、カメラマンとしての活動すらもできなくなったこともある。
気づけば、僕にその「ビジネス」の話を持ちかけた紹介者や指導していた上位会員、そして当時一緒に活動していた仲間たちはすべて姿を消していた。そして、最後に僕だけが残り、無駄に孤軍奮闘していたこともある。
最後の1年間は別の会社に移って銀座を拠点に活動していたが、当然ながらそこでも失敗に失敗を重ねていた。

僕が必死になって活動を進めれば進めるほど、人は僕の周りからどんどん離れていった。付き合いの浅い知り合いや勤務先の元同僚はもちろん、学生時代からの親しかった同級生や親友すらも誰一人残らず離れていった。その「ビジネス」は僕がそれまで培ってきた人間関係をことごとく破壊していったのだ。
さらにバツが悪いことに、僕は極度の人間不信に陥っていった。交流のあった人たちから次々と邪険に扱われたのはとても辛かったが、それ以上にこたえたのは、大切な仲間だと思っていた人たちから利用されるだけ利用された挙句捨てられたことだった。
困っているときは散々人の助けを当てにしておきながら、用が済んだ後、僕が困っているときには少しも助けようとはせず、一方的に突き放す。その「ビジネス」に携わった5年間で僕はそんな出来事に数え切れないほど遭遇してきたことで、人を信じることがバカらしく思うようになっていたのだ。
それでもなお僕はその「ビジネス」から足を洗うことができずにいた。高学歴も金も人脈もない僕が一発逆転して夢を叶えられるようになるためにはこの方法しかないと強く盲信していたからである。
だが、そもそもが合法的な「詐欺」でしかないので、どんなに時間をかけても成功できるはずがなかった。結果として、僕は家族を除くほぼ全ての人間関係を失い、僕の手元には数百万円の借金と大きな心の傷だけが残されていた。
そういう状況になって初めて僕は自分が大きな過ちを犯したことを思い知り、やっとのことでその「ビジネス」から完全に足を洗う決断に至ることができた。そして、金輪際その「ビジネス」には関わらないと強く誓ったのだ。
我ながら極めて愚かな黒歴史である。このときは本当に無間地獄の中にいたような気分だった。
その「ビジネス」から足を洗ってからの僕はほとんど借金を返済するためだけに仕事をしていた。騙されたとはいえ、結果的に借金を作ってしまったのは自分の責任なのだから、せめてもの償いとして返していこうと思って必死に働いていた。
しかし、無情なことにその勤務先で不当な扱いやひどい人間関係に見舞われたこともあり、次第に体調と精神状態が悪化していった。加えて、以前の「ビジネス」でのトラウマからくるPTSDを患っていたことで、正常に働けなくなり、退職せざるを得なくなっていたのだ。
最終的には心身ともに限界を迎えてしまい、非常に無念で無念で申し訳なかったのだが、自己破産という選択を選ばざるを得ない状況に陥ってしまっていた。
ただ、もう一度ドイツに帰りたかっただけなのに。ただ、普通の人と同じように自由に夢が叶えられる当たり前の人生が生きたかっただけなのに。どうして自分はこんなところまで来てしまったのだろう?
深い失意を抱きながら、それまでの全てをリセットするために僕は自己破産へと踏み切った。そして、このときを以って僕という人間は一度死んだのである。

再起
免責許可を得て自己破産の手続きを全て終えた僕は、しばらくの間自宅で療養生活をしていた。療養中は自宅に引きこもって、特に目的もなく読書や勉強に打ち込む日々を過ごしていた。
体調は次第に回復していったのだが、時折発作のように襲ってくるPTSDには長いこと苦しめられた。
しかし、家族の支えと、近所で拾った迷子の子猫との触れ合いによって、少しずつだが立ち直ることができるようになっていった。

ある程度回復した頃、僕は知人からの紹介でその知人が幹部を務める会社の手伝いをすることになった。PCスキルと英語の語学力があったので、会社では事務で裏方的な仕事をしていた。
その会社には週に1日通うだけで、あとは自宅からリモートワークで対応するという勤務形態が取れたので、フレキシブルに動くことができ、自由に使える時間も多くあった。そのため僕は、その時間を活用して今一度自分の進むべき道を模索していた。
そして、その矢先に訪れたのが東京カメラ部の写真展だった。
東京カメラ部とは、言わずと知れた日本で最大規模を誇る審査制の写真投稿サービスのことだ。毎日非常に多くのユーザーがTwitter・Facebook・Instagram・Mastodonなどの各SNSから写真を大量に投稿しているため、今日本で写真好きが一番多く集まっているコミュニティとも言える。
また、東京カメラ部は毎年の初夏前後に渋谷のヒカリエで大規模な写真展を開催していることでも知られている。

元々は「東京カメラ部10選」(その1年間で最も高い反響のあった10人の選者)が制作した作品を展示するのが主旨の写真展だったらしい。この10選をきっかけとしてプロカメラマンとしてのキャリアを始める者も多く、現在ではSNSからプロカメラマンを目指す者にとって登竜門の1つにもなっている。
近年では、各都道府県を題材にした47人の写真家による作品展示や、Instagramから募集した作品の展示、さらには地域創生をテーマに地方自治体とコラボした展示も多く見受けられるようになった。
僕は以前から東京カメラ部の存在やその写真展が毎年渋谷で開催されていることは知っており、ずっと訪れてみたかったのだが、債務整理や療養などでなかなか訪問できずにいた。しかし、全てに区切りがついてからしばらく経った2017年の5月、やっと念願叶って訪問することができたのである。
写真展で鑑賞した作品はどれもクオリティが本当に高かった。中にはプロカメラマンが撮影する作品を圧倒的に凌駕する作り込みの作品も見られたので、ただただ息を飲んでいたのを覚えている。
それらの作品をプロカメラマンではない一般の人が制作したということも驚きだったが、それ以上に驚いたのは、ほとんどの作品が撮影者の近所や地元で撮影したものだったからだ。
それまで僕は、海外へ遠征しないと、少なくとも自宅から離れた場所に行かないと素晴らしい作品は撮れないものだと信じ込んでいた。しかし、ちゃんと目を向けて探せば、自分の地元でも素晴らしい作品が撮れる場所が存在するのだ。その時になって初めて、僕はその当たり前なことに気付くことができた。
また、写真が持つ力も改めて実感できたのも大きな収穫だった。どんな沈んでいて、先が見えないような不安を抱えていたとしても、素晴らしい写真の作品を見れば希望を持つことができるようになる。こんなに素晴らしい光景が世界にはたくさん溢れているのだから、諦めずに進み続けようという気持ちになれるのだ。
そして、東京カメラ部の写真展を通して、僕の中に1つの強い想いが蘇った。
「世界には確かにひどい人間や出来事がたくさんある。しかし、それと同時に、息を呑むような絶景がいくつも存在するように、世界には希望もまた溢れている。そしてそれは遠い異国の地だけではなく、自分の地元や近所にも隠れている。ならば、僕は自分の足でそれらを探し出して、写真に撮り収めてみたい。そして、その写真の作品を一人でも多くの人に届けることで、今を必死に生きる皆をわずかでもいいから応援していきたい。諦めるな、と。」
もう一度写真
それからほどなくして、僕はもう一度写真を本格的に始めるために新しいカメラを購入した。それが現在も相棒として活躍しているオリンパスのミラーレスカメラ:OM-D E-M5 Mark IIだ。

新しい相棒を手にした僕は早速、長かったブランクを必死に埋めるかのように、積極的かつ貪欲に撮影へと出かけていった。
特によく訪れたのが、地元の市原を南北に縦断する小湊鉄道だった。この鉄道は現在も地元民の生活の足として使われているのだが、沿線では昭和初期のレトロな雰囲気が楽しめることから、全国の撮り鉄にとっての聖地になっている。毎年桜が満開になる季節には多くの観光客で賑わっている、市原が誇る観光資源なのだ。

しかし、住み慣れた市川から無理やり引き離されたトラウマもあり、市原に越してきてから15年以上経つにも関わらず、僕はつい最近まで小湊鉄道には見向きもしなかった。鉄道の始発駅である五井駅には自宅から自転車で30分足らずで行けるにも関わらずだ。
市原市民になって17年目にして初めて訪れた小湊鉄道の沿線には多くの素晴らしい光景が広がっていた。春は満開の桜と菜の花、夏は深い新緑、秋は紅葉、そして冬は雪とイルミネーション。四季折々の彩りがレトロな車両と沿線の風景をさらに魅力的に飾っていることもあり、訪れる度にその光景の素晴らしさに魅了された。
また、小湊鉄道の沿線では祭りやイベントなどの催しも頻繁に開催されているのだが、そこでは地元の方々がいつも快くもてなしてくれた。無料でお茶や豚汁を振舞ってくれたり、地元民しか知らないような撮影スポットを教えてくれたり、別れ際には「また来てくださいね。」と言ってくれたり。

小湊鉄道沿線での小旅行を通じて心温まる風景と人々に出会えたことで、地元の市原も捨てたものではないと改めて認識することができた。
また、小湊鉄道での撮影とは別に、アニメ作品の舞台になったロケ地を撮影して回る聖地巡礼にも積極的に出かけた。聖地巡礼は最近では海外でも大きなブームになっているのだが、観光旅行がてら大好きなアニメ作品の世界観を味わえるのはやはり心躍るものがあるからだ。
最近では、アニメ『シュタインズ・ゲート』の舞台になった秋葉原や雑司が谷を巡ってきた。

この作品は海外でも高い評価を受けている作品で、アニメの放映が終了してからしばらく経つ現在でも、ロケ地になったスポットを中心に多くの外国人観光客が訪れている。

特に、積極的に何度も足を運んだのは、新海誠監督のアニメ映画作品で舞台となったロケ地だ。
新海監督は今夏に3年ぶりの最新作『天気の子』が封切られたことでも話題になっているが、その前作『君の名は。』や前々作『言の葉の庭』も社会現象になるほどの人気があり、世界中で多くのファンが存在する。僕自身も新海監督の作品の大ファンで、『言の葉の庭』や『君の名は。』の舞台になったスポットにはよく訪れている。

新海誠監督の作品は見終わった後に希望を持って前へ進める気が持てるのが特徴だが、僕が目指している写真表現の方向性に通じるものがあるため、その舞台になったロケ地を訪れてその世界観を感じることで自分なりの表現を模索しようとしていた。

いずれにしろ、小湊鉄道や聖地巡礼の撮影旅行を通して、僕は写真に対する「情熱」を取り戻すことができた。止まっていた僕の時間は再び動き出した。
僕が写真を撮り続ける理由
これまで僕が半生で体験してきたように、人生は良いことばかりじゃない。いじめや両親の離婚、経済的な事情による挫折、時代の変革など、自分の力だけではどうすることもできない理不尽な出来事に見舞われることもある。時には、救いようがないほど愚かな人や残忍な人と遭遇し、不運に巻き込まれることもある。
しかし、それが世界の全てではない。涙を流すほどに美しい絶景や心優しい人たちもまたこの世界には存在する。そしてそれは遠い異国の地だけではなく、よく探せば自分の身の回りでも見つけることができる。
僕はそういった世界の美しさを1つでも多く発見して写真に撮り収めることで、この世界も捨てたものではないのだと実感したいのだ。それは僕にとって夢を叶えるために今を生きる希望へと繋がるから。
そして、世界の美しさを撮り収めた自分の写真作品を公開することは、自分と同じように苦しみもがきながらも今を生きる人々にとっても、希望となりうるのではないだろうか?そう思ったからこそ、僕は撮影した写真を公開し続けている。
ーこれこそが僕が写真を撮り続ける理由である「情熱」なのだ。
とはいえ、解決すべき問題は依然として山積みだ。
相棒のOM-D E-M5 Mark IIを手にして2年余りが経ち、最近になって往時の感覚を完全に取り戻せるようにはなったが、僕の撮影スキルはまだまだ発展途上だ。専門である旅写真では学ぶべきことがまだたくさん残っている。
加えて、最近は星景写真や花写真などにも興味を持ち始めたのだが、今後はそれらも含めて幅広いジャンルの撮影を手掛けられるようになりたいと思っている。旅スナップで撮影できる光景以外にも、世界には美しいものが溢れているからだ。
また、切実なのは活動可能な領域についての問題だ。現在の僕は会社での事務職を離れ、フリーランスのライター兼ブロガーとして生計を立てている。ただし、収入はまだそれほど安定せず、活動に使える資金は限られているため、長期間の旅行へ出かけることはなかなかできない。本当は海外へも積極的に出かけたいのだが、現在は地元である千葉県や都内近郊を回るので精一杯なのが実情だ。
しかし、時代の犠牲者となって夢を諦めるつもりは毛頭ない。このメディアを盛り立てていくことで収入を上げ、少しずつでも行動できる範囲を徐々に広げていこうと思う。そして、ゆくゆくは日本とドイツに拠点を設けて行ったり来たりしつつ、世界を自由自在に旅行して美しいものを探し求めていきたいと思っている。
そのためにはまず、地元である市原市や千葉県でできることから手をつけていこうと考えている。第一歩として、小湊鉄道の完全ガイドを記事としてまとめてみるのもいいかもしれない。
いずれにしろ、僕の旅写真ライフはまだ始まったばかり。
FotoReiser(フォトライザー|ドイツ語でFoto:光画(写真)、Reiser:旅人)として、希望を感じられる世界の美しい光景を読者の皆さんにお伝えするために、これからも撮影取材と情報発信を積極的に続けていく。
ほんのわずかでもいい。僕が発信することで、希望を持って前へ進める人が現れてくれたとしたら…それだけでも僕が活動する意味はあるのだと思っている。僕としては本望だからだ。
「世界はそれでも美しく、希望に溢れている。」
このメッセージを全面に打ち出して引き続き活動していくので、これからもこのメディアにお付き合いいただけると嬉しい。そして、今後の展開をどうぞお楽しみに!

素敵です。
ありがとうございます^^
写真を撮り続ける理由は人それぞれです。
しかしながら、自分が撮影した作品がわずかでも誰かの生きる希望に繋がってくれればこの上なく本望です。
そう思いながらいつもシャッターを切っています。