かつて名実ともに日本最大の城郭として天下に威容を轟かせた徳川将軍家の居城、江戸城。
実は、天皇陛下が住まわれる皇居の敷地内にその跡地が現在も残っており、一般の観光客にも自由に開放されていることはご存じだろうか?
先日ゴールデンウィーク中にとある用事で東京の丸の内と有楽町を訪れた際、少し時間が余ったので、軽くだがついでに江戸城の本丸跡を散策してきた。
今回はその際の旅の記録を豊富な数の画像と一緒にお送りする。
皇居の東御苑に今も実在する江戸城・本丸の記憶をともに辿っていこう。

江戸城の歴史(太田道灌から現在の皇居まで)
散策に入る前に、まずは江戸城の歴史を簡単に解説しておこう。
江戸城の始まりは、室町時代の1457年、上杉家の家臣だった関東の名将・太田道灌によって築かれたことにさかのぼる。当時、江戸はまだ小さな漁村にすぎなかったが、道灌は戦略的な立地に注目し、この地に城を築いた。これが江戸城の原型だ。
時は流れて、戦国時代末期の1590年、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、徳川家康に関東を与える。家康は本拠地を江戸に移し、太田道灌の築いた城を拡張・整備していく。湿地帯だった江戸の土地を干拓し、大規模な都市整備とともに江戸城の増築を進めたのである。
1603年、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。以後、江戸城は約260年間にわたる徳川将軍15代の居城として、政治の中心地となった。城の規模は拡張を重ね、やがて天守閣は日本最大級の規模を誇るようになる。
しかし1657年、江戸を襲った「明暦の大火」によって、江戸城の天守は焼失してしまう。この火災は江戸市中の大半を焼き尽くすほどの大惨事であったが、焼け落ちた天守はその後再建されることはなかった。幕府は実用性を重視し、再建よりも市中の復興を優先したのである。現在も天守台の石垣のみが残り、当時の威容を偲ばせている。
幕末の動乱を経て、1868年には明治天皇が京都から江戸城に移り、ここを「皇城」と定めた。以後、「東京城」とも呼ばれるが、明治以降は「皇居」として整備され、天皇の住まいおよび国の象徴的な場所となって現在に至っている。
現在、江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡の一部は「皇居東御苑」として一般公開され、歴史と自然を感じる都心の憩いの場となっている。石垣や堀、門などに残された遺構からは、かつてこの地が日本の中心だった時代の記憶を今も読み取ることができるのである。
東京駅・丸の内口〜大手門
それでは、散策を始めよう!
まずは、東京駅の丸の内口から、皇居東御苑に残る江戸城の正門だった大手門までの行き方をご案内する。
丸の内口の改札がある東京駅のドームを出ると、眼前に広大な駅前広場が見えてくる。

実は、この広場の先は皇居の入口まで道路で繋がっている。そのため、東京駅の駅舎を背にして、そのまま広場を直進していけばいい。

丸の内のオフィス街を並木道に沿って進んでいく。

並木道が終わると、急に視界が開けた場所に出る。

この大きな道路(国道1号)の先から広がるエリアこそが、皇居、つまり江戸城の敷地になる。
特別史跡 江戸城跡
横断歩道を渡って少し進み、橋を越えると、右手側に立派な石垣が見えてくる。

石垣の主要な部分の組み方は打込接だが、角の部分は後の時代に普及した切込接を採用することで補強されているように見受けられる。
- 打込接:石の形を少しだけ整えて、すき間に小石を詰めながら積む方法。自然な見た目で古い城に多い。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて主流の石垣の積み方だった。
- 切込接:石をしっかり削ってぴったり合うように加工して積む方法。すき間が少なく、きれいで強いのが特徴。江戸時代の中期以降に発達した積み方だった。
石垣ひとつとっても時代背景や城郭作りの変遷が垣間見ることができてとても興味深い。
橋を越え切ってから右手側を見ると、石垣の側に「特別史跡 江戸城跡」という案内看板が配置されていることに気付く。

これを見るだけでも、これから江戸城の敷地に入るんだという実感が湧いてくるだろう。
ただし、焦ってはいけない。まだここからは江戸城(皇居)の敷地には入らない。
今渡ってきた橋を少し戻って、右側を見ると、堀池の先にいかにもそれっぽい雰囲気のある橋が見えるだろう。

堀を迂回して橋まで移動しよう。

和田倉門跡(和田倉噴水公園)
橋の袂まで来ると、画像のような風景が見えてくる。

この橋は当時の木製ではなく、戦後にコンクリートを使って木橋風に改修されたものだが、雰囲気だけは楽しめる。おそらくここから入った方が、江戸城の敷地に入るという実感は先ほどよりも勝るだろう。
橋を渡って、直角に折れ曲がった道を進むと広場のような場所に出る。

側にはこの場所の由緒を伝える案内板が設置されている。

江戸時代にはここに和田倉門という大きな門があったとのこと。そして、門の中には一の蔵と呼ばれる江戸城が管理する蔵があったらしい。

なお、現在この広場は和田倉噴水公園として開放されている。敷地内にはスターバックスコーヒーが店舗を構えており、市民の憩いの場になっている。

桔梗濠と巽櫓
公園の先には道路を隔てて江戸城の内堀と櫓が見える。

つまり、ここから先こそが江戸城の敷地の真の始まりというわけだ。
ちなみに、この内堀は近くにある桔梗門の名を取って桔梗濠という。そして、内堀を挟んで対岸の角に見える櫓は、本丸から南東の方角にあることから巽櫓(たつみやぐら)と呼ばれている。

巽櫓の優美な姿を堪能したら、視点を右奥に向けよう。すると、桔梗濠を挟んだ先にえらく長い行列のある巨大な門が見えてくる。

実はこの門こそが、江戸城の正門である大手門なのだ。徳川将軍が住んでいた本丸御殿や大奥、そして天守台が残る皇居東御苑へはここから入ることになる。
なお、巽櫓の近くには桔梗門という入口もある。しかし、桔梗門は普段閉鎖されているため、一般の観光客は大手門から入る必要があるのだ。
桔梗濠に沿って迂回するように進んで大手門を目指そう。
大手門〜本丸入口
大手門に到着すると入場待ちの行列があるので、まずはここに並んで順番を待とう。

江戸城の中枢があった皇居東御苑は観光客に一般開放されているが、入場時はここで皇宮警察による手荷物検査を受ける必要がある。

僕は祭日の午前10時少し前に大手門に到着した。少し長い行列はあったが、5分とかからず検査を終えて入場できたのであまり時間はかからないだろう。
大手門の枡形と大門
大手門を抜けると、直角に折れ曲がった広場のような場所に出る。ここはいわゆる枡形(ますがた)と呼ばれる構造になっている。

万一大手門を突破した敵兵が侵入してきたとしても、この2つの門で囲われた直角の広場で四方からの集中砲火によって一網打尽にされることになる。
足軽の気持ちになって江戸城に攻め入ると、その守りが恐ろしく堅固であることに気が付くだろう。
枡形広場の片隅には大手門の由緒を伝える案内板が置かれている。

これから潜ることになる大手門の大門は、オリジナルが1945年4月に空襲で焼失した後、戦後の1967年に復元されたものとのこと。
なお、大門の上には、1657年に起こった明暦の大火の後、江戸城の再建時に製作された鯱(しゃちほこ)が飾られていたらしい。
おそらくそのレプリカだと思われるが、広場の隅には鯱も設置されている。

それでは、大手門の大門を潜ろう。

同心番所
門を抜けてしばらく道なりに進むと、正面右手側に立派な瓦を備えた古めかしい建造物が見えてくる。これは同心番所という建物だ。

番所とは、現代で言う警備員が待機する詰所のこと。かつては江戸城の各部に存在したらしいが、現在は同心番所・百人番所・大番所の3つだけが残っている。

この同心番所では、下級役人である同心を務めた武士たちが詰めていたものらしい。
百人番所
視点を左側に向けると、先ほどの同心番所と似た外観ながら、異様に長い建造物があることに気付く。これが次の番所である百人番所だ。

近くに置かれた案内板を読むと、この番所は江戸城・本丸へ続く道を厳重に守る大手中之門に向き合って設けられたという。

ここには甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組で構成される総勢100人の鉄砲隊が常駐しており、昼夜問わず警備していたらしい。
それだけでも将軍がおわす本丸に向かう際の武士たちの緊張がイメージできるだろう。
中之門跡
百人番所を背にして視線を向けた先に存在したのが、本丸へと続く中之門だ。

中之門自体は残念ながら現在はもう残っていない。しかし、戦後に進められたプロジェクトによって、門周辺の石垣はなるべく当時の姿を留める形で復元されている。

改めて中之門の近くにある石垣にクローズアップすると、寸分の隙間もない切込接の石垣の美しさが堪能できる。

では、中之門を潜ろう。
大番所
すると右手側の少し高い場所に建造物がある。これが最後の番所である大番所になる。

近くの案内板によると、ここには精鋭だった上級武士たちが詰めていたらしい。

中雀門跡
中之門から先の道は右へ大きく迂回しつつ緩やかな傾斜になっている。

道の角まで来た際、石垣の上を見ると、小さな櫓が建っていたと思われる台座がある。本丸に向かう来城者はここからも厳重に見張られていたのだろう。

坂道を最後まで上がり切ると、そこから先のエリアこそが江戸城の本丸だった場所になる。
往時はその入口の辺りに中雀門という立派な門が建っていたらしい。
江戸城・本丸跡地
江戸城の本丸の領域に踏み入ると、視界が一気に開ける。

この広大な空間にこそ、歴代の徳川将軍が政務と生活を行った本丸御殿、そして江戸城のシンボルだった天守が存在していた。
現在は草木が生える広大な空き地になっているが、江戸時代の約260年間、この場所は間違いなく歴史を動かしていた日本の中心地だった。
このまま本丸御殿の領域に入るのもいいが、とりあえずは道に沿って西側へ進もう。
道の分岐に着くと主な見所へ案内する標識があるので、ここで右折しよう。

松の大廊下跡
するとすぐに、最初の目的地である松の大廊下跡が見えてくる。

松の大廊下…このワードに聞き覚えがある方は多いだろう。そう、この場所こそが赤穂浪士による討ち入りで知られる「忠臣蔵」の発端になった事件の現場になる。
詳しくは近くに設置されている案内板に書かれている。

時は元禄14年(1701年)。赤穂藩(あこうはん)の藩主だった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、武家に朝廷の儀礼に関する指導を行う高家の筆頭を務めた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)から屈辱的な扱いを受けたことを理由に、この松の大廊下で人傷事件を起こしたという。
要するに、ぶちキレて襲い掛かっちゃったのである。
ちなみに、その後の顛末を簡単に補足すると次のようになる。
江戸城内で人傷沙汰を起こすのはご法度だったため、浅野内匠頭は即日切腹となり、赤穂藩はお取り潰しとなった。一方、被害者(元凶)だった吉良上野介は背中と額に重傷を負ったものの一命を取り止め、沙汰もお咎めなしとなった。
この結果を不服に思ったのが赤穂の旧藩士たち。そのまとめ役だったのが、家老・大石蔵之介良雄(おおいしくらのすけよしたか)だ。
浅野内匠頭の切腹から約2年後、彼は選りすぐった46名の忠臣たちと共に赤穂浪士を結成し、主君の無念を晴らすため両国にあった吉良邸に討ち入ることになる。
大石蔵之介たちは吉良を見事討ち取ることに成功し、彼らの行った仇討ちは当時の町民からは武士の誉として称賛された。しかし、時の将軍だった徳川綱吉は、江戸市中の治安を維持するために、全員にあえなく切腹の沙汰を下すことになる。
この一連の出来事が忠臣蔵として知られる赤穂四十七士による討ち入り事件だ。
その発端となった松の大廊下が実在した場所というのは、忠臣蔵のファンからするとまさしく聖地なのだと思う。
案内板の片隅にはより古い時代に設置されたであろう石碑もある。

なお、現在この松の大廊下跡はちょっとした散策路になっており、道の端には気軽に休憩できるベンチも複数設置されている。

本丸御殿跡
松の大廊下跡の小道を抜けると、眼前には本丸御殿の跡地が広がる。

本丸御殿とは、歴代の徳川将軍が政務や生活を行っていた場所になる。
下記画像の案内板は、この先にある天守台に設置されているものだが、これをよく見ると本丸御殿の構造がより具体的に把握できる。

それによると、本丸御殿の内部は3つのエリアに分かれており、中雀門に近いものから表・中奥・大奥と呼ばれていた。
表(おもて)は、将軍が謁見などの公的な行事を行う場所であると同時に、幕府の諸役人が活動する執務の場でもあった。
中奥(なかおく)は、将軍が日常生活と政務を行う場所だった。
本丸御殿の一番奥にあったのが、ドラマでも度々登場する大奥(おおおく)。御台所(みだいどころ)と呼ばれた正室をはじめ、幼い子女や側室なども含む将軍の家族と、女中と呼ばれる女官たちが生活していた場所だった。
ちなみに、今立っている場所はちょうど中奥の辺りになる。
そして、道を隔てた先にあるのが大奥の跡地になる。

現在はだだっ広い芝生に1本の高い木が立っているだけ。200年以上の長きに渡って数々の女性による愛憎劇が繰り広げられていた現場だったとは思えないほど平和な場所になっている。
ここが大奥だったということは、五代将軍の徳川綱吉がその御台所や大奥総取締役(大奥の総責任者)と共に無理心中を遂げさせられたという伝説が残る「開かずの間」もここにあったのだろうか?
そう考えると、急にホラーな感じがして少し無震いがしてきた(苦笑)
天守台(天守跡)
本丸御殿にあった大奥跡地のさらに奥には、江戸城・本丸跡散策で最大のハイライトとなる場所がある。それこそが天守台だ。

天守台とは、城郭のシンボルである天守が建っていた台座のこと。
天守は元々、平時の際は武器庫として、有事の際は城主の家族や重臣たちが避難・籠城する砦としての役割を持っていたという。しかし、太平の世になった江戸期では、城の美しさや威厳を知らしめるための存在になっていた。
近くの案内板によると、江戸城の天守は家康・秀忠・家光の3将軍によって代替わりの度に立て直されていたという。

ところが、1657年、江戸中を火の海に陥れた明暦の大火によって天守は焼け落ちてしまう。
その2年後、天守の再建を目指してまずは天守台が築かれた。しかし、幕府内で莫大な費用のかかる天守は不要という意見が主流になったため、天守の再建は幻になった。
当時は明暦の大火がもたらした傷跡から一刻も早く復興するのが最優先事項だったため、仕方がないことなのだろう。(まぁ、それ以前の話として、3代将軍の家光が東照宮をはじめとする寺社仏閣を建てすぎたせいで、幕府の財政が危機的状況にあったのだが。)
いずれにしろ、現在この場所には天守はなく、その台座だった天守台のみが保存されている。
改めてもう一度天守台を見てみよう。

今度の画像はあえて縦位置で上方に空間を多く取り入れて撮影したものだ。この画像から在りし日の天守の姿を想像してもらえればと思う。
…え、、、想像できない?
心配無用!
この記事を最後まで読んでもらえれば、あなたにもこの天守台の上に江戸城の美しい天守の姿がイメージできるようになるはずだ。
とりあえずここでは、天守台の中を見学してみよう。
実は、天守台の中は開放されているため、内部構造の見学が可能だ。また、ちょっとした高台になっており、本丸の領域や江戸城周辺の景色を見渡せるビューポイントにもなっている。
まずは最初のスロープを上がっていこう。当時はスロープではなく階段になっていたらしい。

すると、天守が建っていた天守台本体の前にある踊り場に出る。ここからでも本丸の領域を十分に広く見渡せるようになっている。

ちなみに、天守台の本体まで続く道には3つの門が存在したが、ここまで来ると2つの門を潜ったことになる。そして今から最後の門を抜けることになる。
踊り場に背を向けて進むと最後のスロープがあるので上がり切ろう。当時は下記画像にある左右の石垣の間に天守本体への入口となる門があったらしい。

スロープを上がり切ると広場に出る。明暦の大火が起こる前はここに日本最大と称された江戸城の天守が聳えていた。

現在はちょっとした展望台になっており、休憩に使えるベンチや、方角を確認できる石のコンパスなどが設置されている。
現在この天守台には何も建物が残っていないが、天守台を構成する石垣の様子は見学できるようになっている。

ちなみに、北側に目を向けると、本丸への北からの入口である北桔梗門が少し離れた場所に見える。

北桔梗門は普段閉鎖されているため、そちらからは本丸へ出入りできない。しかし、門の先は北の丸公園になっており、科学技術館や日本武道館などがある。
本丸跡地・その他の見所
江戸城の本丸跡には他の見所もある。簡単に紹介しておこう。
本丸御殿の西側にある小道を進んでいくと見えるのが石室だ。

諸説あり実際の用途は確定していないが、これは火災など有事の際に大奥用の調度品を避難させた場所だったらしい。

大奥には絢爛豪華な打ち掛けや調度品の数々があったので、火災に見舞われた場合でもできる限り保護したかったのだろう。

この場所からは明暦の大火へのトラウマが後世に及ぼした影響が感じられた。
石室の脇から延びる坂道を上っていくと、次の場所に辿り着く。
それがこの富士見多聞櫓だ。

下記の画像のように、櫓の内部は細長い構造になっている。

中には由緒を解説する案内用のパネルが置かれている。その内容にも軽く触れておこう。

解説によると、「多聞」とは、戦国時代の末期から城郭に設置されていた長屋型の多目的施設のことらしい。防御機能を持つ砦の役割も持っていたが、平時は武器や文書類の保管庫や、女中の住居としても使われていたとのこと。
それでこの富士見多聞櫓だが、将軍にとって日常生活の場であった「御休息」の近くに位置していたという。明確な用途は不明だが、襖が備えられた形跡が内部にあることから、倉庫以外の用途に使われていた可能性が高いらしい。
なお、富士見多聞櫓の壁には、見張りと防御の機能を兼ね備えた武者窓という木製の格子窓がいくつも設置されている。

見学で入れるスペースから武者窓までは少し離れていたため、内側から外の景色ははっきりと確認できなかった。
しかし、「富士見」という名称の通り、当時はこの場所から富士山の眺望が楽しめたらしい。

案内板によると、内堀を隔てた西側に、現在天皇陛下のお住まいになっている宮殿や御所、そして紅葉山という小高い丘がある。江戸時代はその頂上に東照宮が存在したという。
現在紅葉山の辺りには背の高い木々が聳えているが、それらの高木がなければこの富士見多聞櫓からも富士山が見えたとのこと。
心の目で富士山の姿を想像しているみるのも一興だろう。
これで江戸城・本丸跡の散策は終了だ。帰りの際はここまで来た道を引き返すことになる。
なお、本丸御殿跡の南側にあるエリアは自然の草花の楽園になっている。

季節によって変わる色とりどりの花が楽しめるので、帰りに寄ってみるといいだろう。
再現された江戸城天守
もし時間に余裕があるなら、是非ともついでに寄ってほしいおすすめの場所が皇居(江戸城跡)の割と近くにある。
それが東京国際フォーラムだ。

有楽町駅の駅前にあるので、東京駅からはわずか1駅ですぐに寄れる。だが、徒歩でも十分に辿り着けるため、おしゃれな丸の内仲通りを散策しながら向かうのもいいだろう。
さて。東京国際フォーラムというと、下記の画像のように、格子状に組まれた金属の骨組みとガラス窓が作り出す開放感あふれる光景で有名だと思う。

しかし、実はこの場所には建物の構造以外に見るべきものが存在する。
東京駅方面から東京国際フォーラムに入ると、その入口付近に下記の画像にある銅像が設置されている。

この銅像の人物こそ、最初に江戸城を建てた太田道灌なのだ。
東京国際フォーラムができる前、元々この場所には東京都庁が建っていたのだが、この像はその旧都庁の中にあったものらしい。
太田道灌の像はある方角を向いている。その視線の先には彼の居城だった江戸城(現在の皇居)があるのだが、その配置も旧都庁時代と同じように再現されているとのこと。
そして、太田道灌像の傍には、ここまで来た目的の品である江戸城の天守を再現したミニチュアが展示されている。
とくと見よ!
これこそが天下を統べた江戸城天守の真の姿だ!!

模型の近くには案内板も設置されている。それによると、高さ44.8mの天守が先ほど見てきた天守台の上に鎮座していたとのこと。

44.8mというと、現在では15階建てのマンションに匹敵する高さになる。江戸時代はもちろん、日本の城郭の歴史上で文句なしに最大の天守だったらしい。
改めて江戸城天守の再現模型を見てみよう。
模型に下側に目を向けると、天守の入口に至るまでの構造がよく把握できる。途中にあったという門の位置も確認できるだろう。

最後に、天守本体をクローズアップしてみよう。

この壮大な建造物があの天守台の上に聳えていたと思うと、徳川将軍家の威光を認めざるを得ないという気持ちになってくる。
あなたもぜひ、天守台を紹介した項目まで戻って、縦位置で撮影した天守台の画像から天守の威容を想像してもらえればと思う。
総評
今回は皇居東御苑にある江戸城の本丸跡を散策したレポートをお届けした。
スケジュールの都合により、今回の散策では二の丸や三の丸など他のエリアを訪問することはできなかった。
それでも、今回の旅行記で江戸城の凄さをわずかでも感じてもらうことができれば、とても嬉しく思う。
江戸城の本丸跡は公園として一般の観光客に広く公開されているので、もし近くに来る機会があったら、是非とも立ち寄ってみてほしい。
城郭巡りは楽しいぞ^^
今回の散策旅行で使用したカメラ機材
ミラーレスカメラ
OLYMPUS E-M1 Mark III ↓
現行の後継モデルはこちらのOM SYSTEM OM-1 Mark II ↓
交換レンズ
M.ZUIKO DIGITAL ED 8-25mm F4.0 PRO ↓
M.ZUIKO DIGITAL ED 25mm F1.2 PRO↓