稲毛の町がかつて海辺にあったという記憶を留める8つの風景を選定した「いなげ八景」。
その魅力を紹介するために前回から3回に分けて探訪のレポート記事をお届けしている。
シリーズ1回目(前編)はこちら↓
中編となる今回は、いなげ八景を構成する風景の4つ目「稲岸公園・民間航空記念碑」、5つ目「千葉市ゆかりの家・いなげ」、そして6つ目「稲毛浅間神社」の3箇所について紹介していく。

特に、八景の5つ目であるゆかりの家は、中国清朝ラストエンペラーの実弟が新婚生活を送った場所でもあるので必見だ。
いなげ八景の魅力を探訪する旅の続きを楽しんでほしい。

前回のあらすじ
シリーズ全3回の内の初回だった前回は、まずJR稲毛駅からいなげ八景の最寄駅である京成稲毛駅までの行き方を紹介した。
その後、いなげ八景の1つ目の名所である「せんげん通り」、2つ目の名所「千蔵院」、そして、3つ目の名所「千葉トヨペット本社社屋」へご案内した。
せんげん通りではこの一帯が海辺だった頃に通りが海水浴客で賑わっていた様子を、千蔵院では今はもう存在しない梵鐘に重ねた反戦平和への願いを、そして千葉トヨペット本社社屋では各地を転々とした近代建築の数奇な運命についてお伝えした。
中編の今回は、前回の最後に訪れた千葉トヨペット本社社屋から探訪の旅を再開する。
④【白砂落雁】稲岸公園・民間航空記念碑
いなげ八景、次の名所が【白砂落雁】こと、 稲岸公園・民間航空記念碑だ。

稲岸公園の探訪を始める前に、その概要や八景としての名称に触れておこう。
稲岸公園・民間航空記念碑の概要
明治中期の1886年、かつて千葉街道と呼ばれていた海辺の通りは現在の国道14号線に整備された。その翌々年の1888年に千葉県で初の海水浴場が開業した。
要するに、本格的に埋立てが始まる1961年までの約70年間、国道14号線のすぐ先には大勢の海水浴客で賑わう白砂のビーチが広がっていたのだ。
この場所の転機となったのは、海水浴場がオープンしてから24年後の1912年。元海軍で、後に「民間航空の先駆者」と呼ばれる奈良原三次によってもたらされる。
彼は潮が引くと固く締まる稲毛の砂浜に着目した。そして、民間としては初めての飛行練習所を稲毛海岸に開設した。同年、鳳号と呼ばれる奈良原式4号機を製作。それから稲毛海岸を拠点に各地で有料公開飛行を開催していた。
ちなみに、アメリカのライト兄弟が世界初の動力飛行に成功したのは1903年。そのわずか9年後に、遠く隔てた日本の地で奈良原が民間飛行に成功したという事実は驚くべき快挙なのだろう。
残念ながら、奈良原の飛行練習所は1917年の台風による高潮で壊滅してしまったため、現在はもう存在しない。稲毛海岸に飛行練習所が存在したのはわずか5年ほどだが、この場所は日本の民間航空史にとって最も重要であることに疑いの余地はない。
飛行練習所の跡地である稲岸公園には現在、日本における民間航空の発祥の地であることを記憶に残す記念碑が建てられている。
落雁とは?
八景の名称に含まれる「落雁(らくがん)」とは、雁が列を成して舞い降りる情景のこと。

稲毛海岸の飛行練習所を創設した奈良原は民間パイロットの養成にも注力していたことで知られている。彼の教え子には、白戸栄之助や伊藤音次郎など後に日本航空業界のパイオニアとなる名航空士も含まれていた。
白砂の飛行練習所で奈良原から飛行技術を学んだパイロットの卵たち。講習を終えた彼らがこの場所から次々と巣立っていく様子を落雁になぞらえて命名したらしい。
探訪:稲岸公園・民間航空記念碑
それでは、稲岸公園にある民間航空記念碑の探訪を始めよう。
まずは、前回千葉トヨペット本社社屋へ向かう時に通った、建物の前を通る小道を引き返して入口まで戻ろう。

すると横断歩道があるのでそのまま渡って、正面にある広大な芝生の公園の中に入る。この公園が次のいなげ八景の名所がある稲岸公園だ。
公園の敷地に入って遥か南方(海側)に視線を向けると、遠くに竹とんぼのような赤いT字型の構造物が見えてくるだろう。

それこそが次の目的地になる。なので、このまま記念碑を目指して芝生を進んでいこう。
途中、鉄道ファンにはたまらない下記のようなものも展示されている。

これはNUS7というSL機関車の実物らしい。
近くには案内板もある。

それによると、この車両は1953年から1968年までの間、川崎製鉄の千葉製鉄所で資材や原材料の運搬に使われていたのだとか。
このSL車両は中に入って見学することもできる。

民間航空記念碑を訪れるついでに見てみるといいだろう。
さて、SLがあった場所からさらに先へ進むと、いよいよ目的地に辿り着く。
これがいなげ八景の4つ目、民間航空記念碑だ。

この場所に日本初の民間による飛行練習所が開設されたことを記念して設置されている。いわば、日本における民間航空の発祥地となっている。
台座部分には、奈良原の弟子の1人、伊藤音次郎による記念碑の由緒書きが刻印されている。

また、側面には「民間航空発祥之地」という刻印が施されている。

次の画像は記念碑の反対側(南側)に回って撮影したところ。

大空をバックにした構図を作れるので、こちらの方がより「航空」・「飛行機」・「パイロット」などのイメージに近い作品撮りができるだろう。
ちなみに、民間航空記念碑のすぐ隣には背の高い松の木があるが、これもヒコーキ好きや航空ファンなら絶対に注目したいスポットだ。

この松の木はただの松にあらず。実は、1903年にライト兄弟が世界で初めて動力飛行に成功したキティ・ホークの丘に生えていた松の種を植えて育てたものなのだ。
1960年に日本初飛行50周年を記念して、キティ・ホークの丘があるアメリカのノースカロライナ州から贈られたという。詳細については近くの案内板にも記載されている。

つまり、この稲岸公園には、航空史における重要な記念碑として日本初と世界初の2つのものが揃っているのだ。

ヒコーキ好きや航空ファンならぜひ訪れてみてほしい。奇しくも最近ヒコーキ撮影の楽しさに目覚めたばかりの僕にとっても、この八景はとても刺激的で学びのある名所だった。
稲岸公園からゆかりの家と稲毛浅間大社までの行き方
稲岸公園にある民間航空記念碑の見学を終えたら、次のいなげ八景の名所がある千葉市ゆかりの家・いなげを目指そう。
まず、国道14号線の方へ向かって、稲岸公園の中を北東へ進んでいく。
すると、右手側の先に歩道橋とかつやがある場所に出るので、横断歩道を渡ってそちらへ向かおう。

続いて、かつやの駐車場の裏側にある小道に入る。

少し進んでいくと、左手側に別の駐車場があるのだが、その敷地の先に大きな鳥居があることに気が付くだろう。そのまま駐車場の中に入って鳥居を目指そう。

こちらは鳥居の間近まで近寄った様子。

実はこの鳥居、「一の鳥居」と呼ばれる由緒正しいものになる。
鳥居の先には国道14号線を挟んでこれから訪れる稲毛浅間神社の境内がある。神社への参拝客は以前まで最初にこの一の鳥居を潜ってから、参道を通って神社の境内を目指したらしい。つまり、この鳥居が稲毛浅間神社へ参拝する起点になっていたのだ。
ただ、現在はもうこの一の鳥居から神社の境内へ真っ直ぐ進むことはできないので、鳥居から向かって左手側にある歩道橋を利用する。

歩道橋を渡って道路の向かい側に来ると、すぐに稲毛浅間神社の境内への現在の正門である二の鳥居が見えてくる。

しかし、ここではまだ神社の中には入らず、二の鳥居の左側へ延びる脇道を入っていく。すると、いなげ八景、5つ目の名所である千葉市ゆかりの家・いなげが左手側に見えてくるだろう。
⑤【ゆかりの家夕照】千葉市ゆかりの家・いなげ
いなげ八景、次の名所が【ゆかりの家夕照】こと、 千葉市ゆかりの家・いなげだ。

ゆかりの家の探訪を始める前に、その概要や八景としての名称に触れておこう。
千葉市ゆかりの家・いなげの概要
この建物は、大正時代初期の意匠を伝える貴重な和風木造家屋として、千葉市指定の有形文化財として登録されている。
家屋のルーツを辿ると、元々は東京の水飴商だった「笹屋」が海辺の別荘として1913〜1914年に建設したものになる。
それから時代が少し下った昭和前期の1937年、この伝統家屋に大きな転機が訪れた。
中国清朝ラストエンペラー:愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の実弟である、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)が妻となった嵯峨侯爵家長女の浩と共にこの家屋で新婚生活を送ることになったのだ。
清朝の滅亡後に中国から亡命していた溥傑は、当時天台・轟町(現在の千葉公園の北側)にあった陸軍歩兵学校に入隊していた。そして、職場である陸軍学校へはこの家から場所で通っていたという。
夕照とは?
八景の名称に含まれる「夕照(せきしょう)」とは、夕焼けに照らされた風景のこと。

昭和中期頃までこの家や隣接する稲毛浅間神社は海辺に面していたため、この場所からは海に沈む夕陽が見られたという。
おそらく溥傑もこの家の縁側で浩と一緒に夕焼けを眺めていたのだろう。保養地・稲毛の夕照に故郷・清朝の黄昏を重ねつつも、束の間の穏やかな時間を過ごしていたのだと思う。
溥傑が浩と共にこの家で暮らしたのは、盧溝橋事件で中国との関係が悪化して彼らが満州へ向かうまでのわずか半年ほどだった。
しかし、溥傑が晩年に残した漢詩に書かれているとおり、この家で浩と過ごす日々は彼にとってかけがえのないものだったに違いない。
探訪:千葉市ゆかりの家・いなげ
それでは、千葉市ゆかりの家・いなげの探訪を始めよう。
溥傑と浩が新婚生活を過ごした和風木造家屋には、通りに面した下記の入口から入る。

入口には下記のような案内板がある。

公開時間が決まっているので、時間内に訪れるようにしよう。
なお、千葉市ゆかりの家・いなげの公開時間は次の通り。
- 公開時間:9:00〜16:30
- 休館日:毎週月曜・祝日・年末年始
(月曜が祝日の場合はその翌日も休館)
玄関
入口の階段を上がっていくと家屋の玄関に着く。

ふと上を見上げると、切妻屋根の下に家紋と思われる笹の紋様の飾りがある。これはこの家の建設者でだった笹屋の名残なのだろう。

玄関の扉を開けて家屋の中に入ろう。入場料は無料のため気軽に訪問させていただくといい。

公開時間に訪れると、中には家屋の管理とガイドを兼ねるスタッフが何人か待機している。ガイド料も無料なので、もし詳しい案内を希望するなら、遠慮なく彼らにガイドを頼むといいだろう。
改めて玄関横の壁を見ると、そこにはありし日の溥傑と浩のツーショット写真が展示されている。おそらくこの家の中庭で撮影したものなのだろう。

居間・奥の間
玄関から奥に進むと、居間のような場所に出る。

いかにも典型的な古い和風木造家屋の内装である。一見して僕が思ったのは、「サザエさんの家じゃん!」だった(笑)
この部屋には、家屋が隣接する稲毛浅間神社の歴史を伝える写真が展示されている。

これらはおそらく現在の入口である二の鳥居付近の過去の様子を伝えるものだろう。まだ鳥居の前に砂浜が広がっていた頃の様子が見てとれる。
また、この部屋と続く奥の部屋には、溥傑・浩夫妻の成婚当時の記念写真や、夫妻の次女である嫮生(こせい)さんとその子孫たちなど家族の肖像写真も展示されている。

さらに奥へ進むと、これまでの和風建築とは打って変わって洋風の趣きがある部屋に出る。

この部屋の壁面には、この家で過ごす様子を撮影したものなどを始めとした、溥傑・浩夫妻のツーショット写真が展示されている。

ラブラブな様子からとても仲の良い夫婦だったのだろう。
客間
次に、一旦戻って玄関の右隣りにある部屋を見学しよう。

ここはおそらく客間なのだろう。この部屋と続く奥の間には、清朝皇帝の家系図や、美しい書体で記された漢詩の数々が展示されている。

これらの漢詩の書は全て溥傑本人の手によるものだ。溥傑は中国の現代三筆に数えられる書家の1人としても有名で、彼の流れるような書体は書道の本場である中国でも評価が高い。彼の作品の一部は北京の故宮博物院にも展示されているのだとか。
ちなみに、夕照の解説で触れた漢詩の書もこの部屋に展示されている。
下記の画像は客間を出て廊下を眺めた様子。

本当にサザエさんの家というか、いかにも昭和レトロな光景がそこにはあった。
家屋内の他の見所
有形文化財に登録される和風木造家屋だけあって、この家屋自体にも材質や内装など見るべきところがたくさんある。
室内を見渡すと、和風家屋でありながら、どことなく中国や台湾を思わせるような装飾も見られる。

ガイドさんに聞いたところ、家屋内には当時としては珍しい杉で作られた雨戸もあるとのこと。

また、溥傑の書が展示されていた客間の襖にも興味深い仕掛けがあった。外側からは室内の様子が見えにくいように襖のガラスに特殊な加工が施されていたのだ。

客間の襖を開けた先にある縁側には藤棚もある。これは樹齢100年以上のフジの木らしい。

残念ながら、僕の訪問時は満開の時期を少し過ぎていたのでほとんど散ってしまっていた。
また、ガイドさんが話されていたが、新宿御苑などの庭園と違って、ここの藤棚はプロの庭師が整備しているわけではないらしい。本来の美しさをお見せできないことを残念がっておられたので、管理している千葉市には是非ともプロによる整備をお願いしたいところだ。
ちなみに、整備した上で満開を迎えた状態の藤棚の様子は、写真という形で居間に展示されている。

僕もこの美しい眺めを是非とも自分の目で見てみたい。
中庭
このゆかりの家では中庭も絶対に忘れてはならない魅力的な見所になっている。
中庭に行くには、一旦玄関から外に出て、玄関の脇にある通路を進んでいく。

すると、先ほど客間の中から見た藤棚がある。それを迂回するようにして進むと、中庭に出られる。

ちなみに、藤棚の先、かつての海辺側の方には橋があり、その奥にももう1つ庭(前庭)がある。次の画像は橋を渡って前庭の奥から藤棚の方を望んだ様子だ。

この画像は別の訪問日に撮影したものだが、先ほど屋内で見た藤棚の写真と同じような構図で記録できることが分かるだろう。
では、改めて藤棚の後ろに広がる中庭に向かおう。
こちらが中庭の様子。

縁側の雰囲気がいかにも昭和レトロな趣きを醸し出している。この時は3月下旬に訪れたので緑はあまり多くはないが、それが却って家屋自体の美しさを強調しているように思えた。
次の画像は実際に縁側から中庭を眺めた様子。

溥傑と浩がこの家で過ごした時は、この縁側に座って海に沈む夕日を眺めていたのだろう。
ちなみに、このゆかりの家の中庭は四季折々の草花が楽しめることでも知られている。
例えば、下記の画像。左側に美しく咲いたツツジの花が見えるだろう。

こちらは5月上旬に訪れた時に中庭を撮影したものだ。先ほどの3月中旬に訪れた時と違って草花が豊かに生い茂っているので、まるで違う風景が楽しめる。
他にも季節ごとに異なる花が咲いているため、訪れる度に違った花景色が堪能できることだろう。
離れの間
次は、中庭の奥にある離れの間に向かおう。
こちらがゆかりの家の離れの間だ。

中はこのような様子になっている。

溥傑夫妻がこの家に住んでいた当時、溥傑はここを書斎として使っていたとのこと。静かで落ち着いた佇まいなので、集中して作業を進めるのにちょうどいいのだろう。
ちなみに、この部屋には下記のようなポスターも貼られていた。

こちらは2003年11月にテレビ朝日開局45周年を記念して放送された特別ドラマ『流転の王妃・最後の皇弟』のものだ。溥傑と浩の出会いから始まり、彼らがその後に辿った運命をドラマ化したものになる。
実は僕もこのドラマを通して溥傑と浩、そしてこの家屋の存在を初めて知った口である。
元々は僕が敬愛するヴァイオリニストの葉加瀬太郎氏が劇中のBGMやテーマ曲を担当したということもあって、当時は興味本位で見ただけなのだ。しかし、それがまさか時代を経て僕をこの場所に連れてくるとは思ってもみなかった。
なお、ドラマではこの家屋はロケ地としては使われていないが、資料館としての性質も持っているため、脚本や舞台セットを製作する上で参考になっていたらしい。
裏庭
最後に、絶対に忘れてはならない見所が1つだけ残っている。それが裏庭だ。
裏庭へは、中庭のさらに奥、母屋と離れの間の小道を進んで向かう。

突き当たりに来ると最初に目につくのがこちら。

これは防空壕とのこと。といっても、溥傑と浩が住んでいた時代よりも少し後に作られたものらしい。ゆかりの家のような規模の家屋になると、戦時中は裏庭などにこういった防空壕が作られていたのだとか。
扉や空気穴などの金属部分は現在ではすっかりサビ切ってしまって見る影もない。しかし、戦時中の防空壕の様相を知る貴重な資料であることには変わりない。
さて、ここからが裏庭まできた主な目的。メインディッシュだ。
防空壕のある場所から視線を左へ向けると、背の高い木が見えてくる。

この木は白雲木(はくうんぼく)といって、溥傑と浩にとっても非常に縁の深い木とも伝えられている。白い小花を鈴なりにつける姿が空にたなびく白雲にみえることから白雲木と名付けられたらしい。

この花に関する詳細やエピソードは玄関にある案内書きやガイドさんの話からも聞くことができるが、ものすごく要約するとこんなところだろうか。
白雲木は古くから貴人の邸宅にのみ植えることが許される木とされていた。
溥傑と共に満洲国へ渡る際、浩は貞明皇太后(昭和天皇の実母)から「日中を繋ぐ新しい命の花を咲かせるように」と白雲木の種子を贈られた。
しかし、尊い木の種子を満洲という未開の地に持っていくのは畏れ多いと思ったのか、結局白雲木は海を渡ることなく、浩の実家である嵯峨侯爵家の邸宅の庭に植えられることになった。
それから時代を経て平成の世になった1997年、夫妻が過ごした家屋が資料館として公開されるに当たり、かつて浩が貞明皇太后から贈られた白雲木の子孫となる種子が庭に植えられた。
ちなみに、今ゆかりの家の裏庭に植えられている白雲木は、浩が貞明皇太后から賜ったものから数えると孫木に当たるものらしい。
なお、この白雲木は5月の初旬頃、ちょうどゴールデンウィークの後半ぐらいに可愛らしい花を咲かせる。そして、開花を迎えた白雲木の様子がこちらだ。

大口径レンズに交換してボケ味を最大限に活かすと次のような表情も撮影できる。

こちらの方が白い雲がたなびいているように見えるので、より花のイメージと合っていると思う。
最後に、ゆかりの家の外壁と窓を背景にして撮影。

溥傑夫妻の思い出が残る家に時代を経て根付くことができた白雲木の嬉しさを表現してみた。わずか半年のみの滞在であっても、この家には夫妻の思い出が溢れている。
なお、白雲木の開花時期は若干左右することがあるので注意が必要だ。確実に鑑賞を楽しみたい場合は、訪問前に下記の千葉市が運営するゆかりの家専用ページに記載されている電話番号から問い合わせるといいだろう。
⑥【浅間神社晴嵐】稲毛浅間神社
いなげ八景、次の名所が【浅間神社晴嵐】こと、 稲毛浅間神社だ。

稲毛浅間神社の探訪を始める前に、その概要や八景としての名称に触れておこう。
稲毛浅間神社の概要
稲毛浅間神社は現在の静岡県にある富士山本宮浅間神社から分霊を勧請する形で、平安時代初期の808年に創設された由緒正しい神社。主神には安産と子育ての神:コノハナサクヤヒメノミコトが祀られている。
創設当初は小中台地区に建っていたが、鎌倉時代初期の1187年に現在の位置に移築された。
社殿は東京湾の遥か向こうにある富士山を正面に望むようにして盛土の上に建立されている。高い建物が周囲に乱立する現在と違って、かつてはこの神社の境内からも富士山の姿を拝めたとのこと。
この稲毛浅間神社には初詣時に30万人以上の参拝客が訪れることでも知られている。また、毎年7月の14・15日に行われる例大祭では、参道でもあるせんげん通りに多くの屋台が立ち並ぶ。
晴嵐とは?
八景の名称に含まれる「晴嵐(せいらん)」とは、晴れた日に山にかかる霞のこと。

かつて神社の社殿は海沿いの高台にあったため、春や秋の晴れた日の早朝には霞が立ち込めていた。
近いところでいうと、早朝の霧に包まれたフランスのモン・サン・ミシェルの画像を見てもらうとイメージがしやすいだろう。当時はそのような幻想的で神々しい風景が「一の鳥居」辺りから拝めたらしい。
ちなみに、この一の鳥居。参拝の際はここから境内へ向かうのが正規のルートであることは先ほども触れたが、満潮時には一の鳥居が海の中に立つ光景が見られたらしい。さながら厳島神社の大鳥居のような様子だったのだろう。
ただ、当然その状態では境内に辿り着くことはできない。そのため、7月の例大祭の時などは、鳥居に向かって舟が並べられ、その上に板を載せる形で参拝客が通る参道を用意していたのだとか。
探訪:稲毛浅間神社
それでは、稲毛浅間神社の探訪を始めよう。
本来の作法に則って国道14号線の入口まで戻り、二の鳥居から参道を通っていくのもいいが、今回は裏道からご案内する。
まず、ゆかりの家を出たら、その沿道を国道14号線とは反対の方向に進む。

すぐにせんげん通りと合流するので、そのまま道を上っていく。

少し進むと左手側に大きな鳥居と、その背後に少し急な階段が設置された場所に着く。そのまま鳥居を潜って階段を上がろう。

階段を上まで上がり切ると、大きく開けた場所にある高台に出る。

実は、ここはもう既に稲毛浅間神社の中心部分に入っており、本殿もすぐ左手側に目にすることができる。とんでもないショートカットだ。

安産と子育ての神を祀っているためか、本殿に訪れる参拝客には妊娠中の方や子連れの家族が特に多い。
ちなみに、この稲毛浅間神社は神楽が行われることでも有名だ。
高台で本殿を正面に見て向かって左側の奥に立派な神楽殿が配置されている。

その近くには案内板がある。

稲毛浅間神社の神楽殿は千葉県の指定文化財に、そしてここで執り行われる神楽は無形民俗文化財に登録されていることから、本殿同様に由緒正しいものとなっている。
なお、この稲毛浅間神社では、元旦(1月1日)・節分(2月3日)・例大祭(7月14〜15日)・新嘗祭(11月23日)の年4回に神楽が奉納されているとのこと。
神楽殿の見学を終えたら、本殿と神楽殿のある高台を後にしよう。本殿を背に進むと、下の方に随神門と思われる門がある。

左右にある階段を下って随神門を抜けよう。
随神門を出ると、階段に続いて二の鳥居から延びる参道が見えてくる。正式な参拝ではここから入るのが正解だ。

参道をさらに進んでいこう。

すると、二の鳥居が見えてくるので、そのまま潜るとかつての海岸線だった国道14号線に再び出ることになる。

そして、通りを挟んだ向こう側には、先ほど訪れた稲毛浅間神社の一の鳥居がある。
次回予告
今回の記事ではいなげ八景の4つ目から6つ目までを紹介した。
これらは全てかつての海岸線だった国道14号線沿いにあるため、当時の様子をイメージしながら探訪すれば現在とは違った海辺の風景がより鮮明に見えてくるだろう。
最終回となる次回はそのイメージを完成させるため、7つ目の旧神谷傳兵衛稲毛別荘と、最後8つ目の稲毛公園の松林を訪れたレポートをお届けする。
後編の最後にはおまけも用意しておくので、乞うご期待いただきたい。
この記事の続きはこちら↓
今回の取材で使用したカメラ機材
ミラーレスカメラ
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現行の後継モデルはこちらのOM SYSTEM OM-1 Mark II ↓
交換レンズ
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M.ZUIKO DIGITAL ED 25mm F1.2 PRO↓