「いなげ八景」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
千葉市の稲毛区では海岸線が現在よりも内陸にあり、かつては東京湾に面した海辺の保養地として知られていた。今では埋立てが進み、海の気配は遠のいたかに見えるが、町の片隅には往時を偲ばせる風景がそっと息づいている。
実は、そうした稲毛の記憶を辿るための道標こそが「いなげ八景」なのだ。海辺の情景や寺社の静けさ、別荘文化の名残など、かつてこの地が持っていた風光を八つの情景として切り取ったものとなっている。
どこか郷愁を誘うその名は、古の「○○八景」の形式をなぞりながら、現代の街並みにひそむ歴史の影をそっと浮かび上がらせる。
そこで今回から3回に分けて、僕が実際に歩いて出会った八つの風景を紹介しながら、「いなげ八景」の魅力と、その背景にある物語を読み解いていきたい。
稲毛の町がかつて海辺にあった頃の記憶を共に探しにいこう。

いなげ八景とは?
実際に街歩きを始める前に、「いなげ八景」についての基本事項を説明しておこう。
いなげ八景とは、千葉市稲毛区内に点在する8つの風景を選び、かつての海辺の面影や歴史的情緒を再発見しようとする試みである。
海辺に面した稲毛の歴史
かつて稲毛は東京湾に面した静かな海辺の保養地として知られていた。
明治から昭和初期にかけては海水浴場として栄え、都心から訪れる避暑客でにぎわった時代もある。政財界人の別荘や洋館が立ち並び、文化人の滞在も少なくなかった。
1960年代から埋立てが始まったことで海岸線が遠のいたため、現在では当時の面影は薄れつつある。しかし、町内の8箇所に記憶の断片となる風景が散在しており、それらを辿ることで稲毛の町がかつて海辺にあったことを思い起こすことができるようになっている。
その8つの風景こそが「いなげ八景」なのだ。
八景文化の始まりと日本伝来
「八景」とは、中国湖南省の瀟湘(しょうしょう)地域にある水辺の8つの美しい風景を「瀟湘八景」と称して選定したことがルーツになっている。
瀟湘八景は山水画の伝統的な画題として描かれることが多かったことから、中国各地へ「八景」の文化が広がっていった。
地元の美しい8つの風景を八景と定める文化は日本国内にも伝わり、湖畔や海辺の街でその地域ならではの八景が形作られた。近江八景や金沢八景などが特に有名だ。
最近になって稲毛でもこの八景の文化が導入された。2016年に郷土史家の西川明氏と地域の方々によって、稲毛が誇る海辺の記憶を留めた8つの風景が選定され、「いなげ八景」としてスタートする運びとなった。
いなげ八景の構成要素
いなげ八景には次の8箇所の風景が選定されている。
- 【せんげん通り暮雪】せんげん通り
- 【千蔵院晩鐘】千蔵院
- 【稲毛海岸帰帆】千葉トヨペット本社社屋
- 【白砂落雁】稲岸公園・民間航空記念碑
- 【ゆかりの家夕照】千葉市ゆかりの家・いなげ
- 【浅間神社晴嵐】稲毛浅間神社
- 【神谷別荘秋月】旧神谷傳兵衛稲毛別荘
- 【松林夜雨】稲毛公園の松林
八景としての名称が最初【】の中にあり、その後に所在地としての名称が続く。
暮雪や晩鐘などは、かつてその場所で目や耳にすることができたものや、その様子を想起させるようなものとして命名されている。全てに共通しているのは、海辺にあった稲毛が持つ土地の記憶や風土的特徴に深く結びついていることだ。
なお、地図で見せるといなげ八景の各名所の位置関係は下記のようになっている。

ちなみに、このいなげ八景は、選定の翌年である2017年には、千葉市都市文化賞で景観まちづくり部門優秀賞を受賞している。新たな稲毛の魅力を発見するきっかけや、街歩きの楽しさを感じる試みとして高く評価されているとのこと。
いなげ八景を巡れば、稲毛の町が持つ海辺の記憶を辿ることができる。今や遠くにある海に想いを馳せながら各名所を回っていくことで、とても新鮮で驚きに満ちた街歩きになるだろう。
JR稲毛駅から京成稲毛駅までの行き方
それでは、いなげ八景を巡る稲毛の街歩きを始めよう。
いなげ八景の各名所がある場所への最寄駅は京成稲毛駅になる。
ただ、僕のようにJRを利用していきたい方もいるだろう。そこでまず、JR稲毛駅からスタートして京成稲毛駅まで向かう行き方を紹介しておこう。
JR稲毛駅の改札を出たら、海側にある南口から外に出る。

駅前にあるロータリーを迂回するようにして西へ進むと、交番が見えてくる。

そしたら、交番の脇にある道に入ってそのまま直進しよう。
この道は緩やかな下り坂になっている。この時点からもう、この道がかつて海辺へ繋がっていたことを思い起こすことができる。
下りながら10分ほど道を進んでいると、やがて踏切が見えてくる。

この踏切を挟むようにして設置されている駅舎が京成稲毛駅になる。
そして、この踏切の先へ続く道こそが、いなげ八景の最初の名所となるせんげん通りというわけだ。
①【せんげん通り暮雪】せんげん通り
京成稲毛駅から始めに見られるいなげ八景の名所が【せんげん通り暮雪】こと、せんげん通りだ。

せんげん通りの探訪を始める前に、その概要や八景としての名称に触れておこう。
せんげん通りの概要
せんげん通りは、現在の京成稲毛駅の踏切から国道14号線まで続く通りになっている。
国道14号線にはかつて海岸線が存在しており、せんげん通りはその海辺へと続く緩やかな下り坂になっていた。要するに、海辺へ海水浴に向かう人々がリゾート気分でウキウキしながら通る道だったのだ。
往時は沿道に醤油醸造屋・木炭店・理髪店・履物店などの店舗が軒を連ねており、普段や年末年始は買い物客で賑わっていたという。海水浴のシーズンになると、各店舗で麦わら帽子や浮き輪も取り扱うようになっていたらしい。
1961年から始まった埋立てによって海岸線が遠のいてしまったため、現在はもうその様子を見ることはできない。しかし、せんげん通りの緩やかな下り坂を進んでいけば、海水浴客でごった返す往時の賑わいを想起することはできるだろう。
また、このせんげん通りはその名称の通り、道の奥に鎮座する稲毛浅間神社の参道にもなっている。参拝客はまずこの道を下って現在の国道14号線がある海辺まで出て、それから対岸にある一の鳥居、正門である二の鳥居を順番に潜って境内に入る。
暮雪とは?
八景の名称に含まれる「暮雪(ぼせつ)」とは、夕暮れに降る雪のこと。

雪といっても本物の雪ではなく、貝殻が道のあちこちに散りばめられた様子のことを示しているらしい。
かつてこのせんげん通りの周辺では、地元の女性たちが貝の剥き身を販売していた。そして、彼女たちが処理した貝殻はそのまま沿道に撒かれていたという。
至る所に貝殻が撒かれたせんげん通りを夕暮れに見ると、あたかも道に雪が積もっているような光景が見えたのだろう。
なお、昭和40年代(1965年〜)にはもうこのせんげん通りは舗装されていたため、この暮雪の光景は見れなくなっていたらしい。
ただ、せんげん通りに繋がる路地には相当数の轍や窪みがしばらく残っていた。そういった所に貝殻を再利用して詰めることで人や車が通りやすくしていたのだとか。
探訪:せんげん通り
それでは、せんげん通りの探訪を始めよう。
京成稲毛駅の踏切を越えると、奥に向かって緩やかに下っていくまっすぐな道が見える。

道のずっと奥には浅間神社のある鎮守の森があり、その先にはかつての海岸線である国道14号線が走っている。
道を少し進むと、沿道に伝統的な建築様式を採用した老舗もいくつか見えてくる。

ちなみに、上記の画像の右端に見えるのが稲毛園本店の建物。お茶や海苔のほか、お土産としても人気のある「電氣ブランケーキ」も販売している。
この稲毛園本店については、後編で改めて紹介しよう。
せんげん通りの沿道には、右側に見える時計店のように昭和レトロな雰囲気を残した店舗がいくつか残っている。

ちなみに、このせんげん通りは神社の参道としての役割も持っている。そのため、鎮守の森まで進んでいくと、左手側に稲毛浅間神社の大きな鳥居が見えてくる。

この鳥居は神社の正門ではなく、本殿の裏側に位置するのだが、この先には日本各地の主な神社の分社が鎮座している。つまり、ここでお参りするだけで有名神社のご利益にあやかることができる。
なお、この稲毛浅間神社はいなげ八景の6つ目の名所でもある。詳しくは次回の中編で改めて紹介するとして、とりあえずは次の名所である千蔵院に向かうためにせんげん通りを京成稲毛駅まで戻ることにしよう。
②【千蔵院晩鐘】千蔵院
いなげ八景、次の名所が【千蔵院晩鐘】こと、千蔵院だ。

千蔵院の探訪を始める前に、その概要や八景としての名称に触れておこう。
千蔵院の概要
真言宗豊山派のお寺で、正式名称は薬王山千蔵院という。本山は、古墳時代以前の遺跡や日本最古級の神社があることで知られる、奈良県の桜井市にある長谷寺とのこと。
元々この千蔵院は千住寺と南蔵院という2つの寺がルーツになっている。1909年に川城明阿住職という方が2つの寺を合併し、それぞれから1字を取って千蔵院と名付けたことから、千蔵院の歴史が始まっているらしい。
寺の境内はこじんまりしており、現在は見所となるものも少ない。しかし、この千蔵院は地元民から牡丹の名所として有名で、4月の終わりから5月上旬にかけては大きく咲き誇る牡丹の美しい花が鑑賞できる。
晩鐘とは?
八景の名称に含まれる「晩鐘(ばんしょう)」とは、夕暮れに鳴り響く寺の鐘のこと。

かつてこの千蔵院には立派な梵鐘(釣り鐘)があったらしい。
しかし、太平洋戦争の真っ只中、梵鐘は兵器製造に使う金属の不足を賄うために強制的に徴収されてしまったという。
現在はもう見ることも聞くこともできない寺の梵鐘。その鐘の音が暮れなずむ海辺の町に厳かに鳴り響く様子に想いを馳せて「晩鐘」と名付けたらしい。
なお、この梵鐘の経緯については、寺の隣にある小学校でも教えられているのだとか。
一度戦争が起きると、お寺の立派な鐘も無理矢理取られてしまう。そういった戦争の愚かしさを幻の鐘を題材にすることで子供たちに伝えているらしい。
千蔵院晩鐘とは、地元の方々にとって悲しい歴史を伝えるものであると共に、反戦への願いを込めた象徴にもなっているのだろう。
せんげん通りから千蔵院までの行き方
この千蔵院はいなげ八景の中で最もわかりにくい場所にある。行き方や次の名所への抜け方が少し複雑なので、道に迷わないように気を付けたい。
まずせんげん通りを戻って京成稲毛駅の踏切を越える。
後ほど昼食でお世話になるあかりサロン稲毛(後編で紹介)を背にして踏切を見ると、左右に道が分かれているのが見える。

千蔵院に向かうには、この分岐を右へ進んでいこう。
改めて踏切を越えたら、すぐに右折して踏切沿いの道へ入ろう。

この道は少し進むとやがて左へ曲がっていく。
5分ほどまっすぐ進むと、川(草野水路)に架かる橋と、その先に小学校の校舎が見えてくる。橋を越えてもう少し進もう。

すると、小学校の隣り、道の右手側に千蔵院の山門が見えてくる。
探訪:千蔵院
それでは、千蔵院の探訪を始めよう。

山門を潜って寺の境内に入ると、真言宗の中興の祖と言われる南無興教大師(覚鑁(かくばん)上人)の像が手前に、参道の奥に本堂が建っている。

こちらが千蔵院の本堂。

この寺には寺宝や彫像などの見るべきものは少ない。しかし、4月の終わりから5月上旬にかけては境内に植えられた大輪の牡丹の花々が楽しめる。

山門まで戻ってきたところ。この場所から失われた梵鐘の音をイメージしてみるのも面白いかもしれない。

千蔵院から千葉トヨペット本社社屋までの行き方
千蔵院の訪問が終わったら、いなげ八景の次の名所である千葉トヨペット本社社屋を目指そう。
山門を抜けたら、右折してT字路まで進もう。

ちなみに、千蔵院の境内に沿って延びるこの通りは本郷通りという。
この辺りは現在、稲毛町5丁目になっているが、実はこの辺りから稲毛の町は始まったのだとか。
本郷通りの沿道にはかなり年季の入った伝統家屋も建ち並んでいる。こういった家屋の表札には、川島・植草・海寳など古い名家の苗字が記載されていることが多い。

さて、T字路に着いたら左折して進む。
すると左手側に歯科医院の建物が見えてくるので、左折してその脇道に入る。

道なりにしばらく進むと草野水路に架かる橋が見えてくる。

橋を越えたら、最初の分岐を右折して進もう。

するとすぐに、道の両側に道祖神や何かを祀ったものと思われる祠がある場所に出る。その間の道をそのまま直進していく。

道は徐々に狭くなっていくが、気にせず進んでいく。

すると、左側に道祖神と思われる祠がある十字路に出るが、そのまま道を直進していこう。

十字路の先は緩やかな下り道になっている。その細い路地を進んでいくと、やがて大きな通りに出るが、これがかつての海岸線である国道14号線だ。

国道14号線を挟んだ道の反対側には、次の訪問先である千葉トヨペット本社社屋の建物が見えてくる。

③【稲毛海岸帰帆】千葉トヨペット本社社屋
いなげ八景、次の名所が【稲毛海岸帰帆】と名付けられた、千葉トヨペット本社社屋だ。

千葉トヨペット本社社屋の探訪を始める前に、その概要や八景としての名称に触れておこう。
千葉トヨペット本社の概要
トヨタ自動車の系列企業である千葉トヨペット が現在本社の社屋に使用している建物は、神社建築に見られる唐破風の玄関と銅葺き屋根を備えた美しい外観で知られている。
この建物は1899年に日本勧業銀行本店として東京の麹町区、つまり日比谷公園の向かい側に建設された。
設計者は妻木頼黄と武田五一。妻木は日本橋を手掛けたことでも知られており、東京駅や日銀を設計した辰野金吾、迎賓館(赤坂離宮)を設計した片山東熊と共に、「近代建築の三大巨匠」に数えられている。
まさに明治期を代表する近代建築の1つだが、この建物は様々な場所を転々とするという数奇な運命を辿ったことでも有名だ。
まず大正末期の1926年に谷津遊園の楽天府として習志野市に移築。続いて、昭和に入り、1940年に千葉市役所の庁舎として千葉市の中央区長洲に再び移築された。
そして最終的には、千葉トヨペットが千葉市内に再建することを条件に千葉市から譲り受け、1965年に同社の本社社屋として現在の地に3度目の移築を完了した。
なお、この千葉トヨペット本社社屋は1997年に国の登録有形文化財として指定されている。
帰帆とは?
八景の名称に含まれる「帰帆(きはん)」とは、 港に帰る船のこと。

千葉トヨペット本社社屋の裏側、現在の草野水路が流れている辺りは、かつて花園川や塩田川と呼ばれていた。当時この辺りは海だったこともあり、河口付近には船泊まりがあり、小さな港として機能していたという。
港の海上には海苔の養殖などに使ったべか舟や、観光客向けの貸しボートが停泊していたらしい。また、風帆を張った漁師の船である打瀬船も見られたのだとか。
各地を転々としてきた千葉トヨペット本社社屋の建物が最後に現在の地に帆を下ろして落ち着くことができたという経緯を、数多くの船が停泊していた当時の港の光景になぞらえて「帰帆」と名付けたらしい。
こういった経緯を知った上で訪れると、建物の唐破風がどことなく船の帆に見えてくる。
探訪:千葉トヨペット本社社屋
それでは、千葉トヨペット本社社屋の探訪を始めよう。
国道14号線に出たら、左手側にある横断歩道を渡って通りの反対側に向かう。
ちなみに、1960年より以前、この通りから先は海だったらしい。
通りの反対側に着いたら、左手側に大きな公園を見つつ、公園に沿って通りを西へ進む。

公園の敷地が終わる頃、視線の先にはトヨタの看板が見えてくる。そして、その先に目的地がある。
曲がり角を左折して少し進むと、通りの反対側に小道の入口が見える。横断歩道を渡って入口へ進もう。

小道を少し進むとすぐ、左手側にいなげ八景の3箇所目、千葉トヨペット本社社屋の建物が見えてくるだろう。

建物の正面には下記のような案内板が設置されている。この建物が現在の地に移築されるまでの経緯を伝えてくれている。

そしてこちらがこの建物のベストショットだ。

16mm相当の超広角レンズをフルに使ってやっと建物の全体を収めることができた。水平出しに少し苦戦したが、港に停泊する大型帆船のように威風堂々とした姿を表現できたと思う。
こちらは正面玄関の部分をズームレンズでクローズアップしたところ。

建物を象徴づけている唐破風と銅葺き屋根が青空に美しく映えている。正面に燦々と煌めくトヨタのロゴも外観に歴史の深みを加えていて素晴らしい。
次回予告
今回の記事ではいなげ八景の1つ目から3つ目までを紹介した。
これらの場所だけでもこの稲毛の町がかつて海辺にあったことがわずかながらもイメージできるようになったと思う。
次回はそのイメージをより高めていくため、4つ目の稲岸公園・民間航空記念碑、5つ目の千葉市ゆかりの家・いなげ、そして6つ目の稲毛浅間神社を訪れたレポートをお届けする。
乞うご期待いただきたい。
この記事の続きはこちら↓
今回の取材で使用したカメラ機材
ミラーレスカメラ
OLYMPUS E-M1 Mark III ↓
現行の後継モデルはこちらのOM SYSTEM OM-1 Mark II ↓
交換レンズ
M.ZUIKO DIGITAL ED 8-25mm F4.0 PRO ↓