東京メトロの行徳駅から妙典駅に至るまでのエリアの北部に広がり、江戸時代から続く長い歴史を持つ寺社仏閣や神輿店が点在する行徳寺町界隈。
その魅力を紹介するために前回と今回の2回に分けて散策のレポート記事をお届けしている。
後編となる今回は、常夜灯公園からゴール地点となる妙典駅に向かうまでの間に点在する寺や神社に加えて、行徳で唯一残り現在も営業を続けている中台神輿店などを紹介していく。
知られざる行徳寺町界隈の魅力を探訪する旅を最後まで楽しんでほしい。
前編と同様、掲載した画像の大半には2008年に発売した旧オリンパスのオールドデジタル一眼レフカメラ「E-30」で撮影しているので、その仕上がりも引き続き堪能していただきたい。(E-30で撮影した画像の外枠には目印として「★」を付けている。)

前編のおさらい
はじめに、前回、行徳寺町界隈巡りの前編で辿ったルートを簡単に振り返ろう。
前編はこちら↓
前回はまず東京メトロの行徳駅から散策をスタートした。
駅に北にある県道6号(バイパス通り)を超え、寺町界隈の玄関口とも言える場所にある押切稲荷神社と湊水神宮で導入の無事を祈願した。
それから押切稲荷神社の脇から続く小路を進み、光林寺、おかね塚、徳蔵寺、権現道などの寺や史跡を巡った。
続いて、江戸時代のメインストリートだった行徳街道に出て、かつての後藤神輿店だったと思われる古い建物を横にして進んだ。
街道の先には浅子神輿店の店舗兼工房だった建物があり、その中に入居する市川市行徳ふれあい伝承館で行徳でかつて隆盛を極めた神輿産業について学んだ。
そして、伝承館の見学を終えた後は近くの小路から旧江戸川の河岸に出て、史跡である常夜灯と共に土手の上に築かれた常夜灯公園に至り、前回の散策はここで一区切りとした。
後編となる今回は、前回の中断地点であるこの常夜灯公園から再スタートする。

笹屋うどん跡
旧江戸川の土手にある常夜灯公園を後にしたら、前回来た小路を戻って行徳街道に出る。
行徳街道を道沿いに妙典方面へ少し進むと、かなり年季の入った古い建築物が右手側に現れる。

この建物は笹屋うどん跡という。
まだ行徳街道が成田詣での参詣道の一部だった江戸時代、盛大に繁盛していた人気のうどん屋さんだ。
船に乗ってきた場合や、陸路で歩いてきた場合に関係なく、当時はここに来たら立ち寄らなかった巡礼者はいなかったという盛況ぶりらしい。
現在で言うところの、駅前などにある丸亀製麺のようなお店だろうか。

現在残る笹屋うどんの建物は、江戸時代の末期にある1854年に建てられたものらしい。
店舗自体は既に閉店から長く経っており、屋内の見学はできないが、行徳街道から建物の外観は観察できる。
加藤邸と田中邸
行徳街道をさらに進んでいこう。
するとすぐ、左手側に立派な煉瓦の塀を備えた古民家が現れる。

この建物は加藤邸と言う。
かつてこの行徳で塩問屋を生業にした一族の邸宅らしい。
その他の由緒を伝える案内板は周囲に見られなかったが、国の登録有形文化財として登録されているため、外観から長い歴史を感じさせる。

実はこの行徳街道には、加藤邸に似た建築様式で作られた古民家がもう1軒存在する。
街道をしばらく先に進むと、同じく左手側に次のような建物が見えてくる。

これは田中邸と言う。
370年以上前から続く旧家である田中家の邸宅らしい。
現在の建物が建築されたのは明治元年(1868年)で、かつて行徳町の町長を務めた田中稔氏の父によって建てられたとのこと。
建物の片隅には、誰の手による作品だろうか、立派な句碑が配置されている。

権現道
ここで行徳街道から一旦離れる。
田中邸を後にしたら、少し先の右手側から延びる小路に入る。

小路を進むと、特徴的な白い平石が敷き詰められた細い道が見えてくる。

これは前編でも登場した権現道だ。
ここでは道の脇に由緒を伝える案内板が配置されている。

権現道について改めて説明しよう。
この道には徳川家康が東金に鷹狩りへ向かう際に通ったという伝承が残っている。
家康公が死後に神格化された際に東照大権現と呼ばれたことから、権現道と言われているとのこと。

この小路は徳蔵寺がある関ヶ島地区から、今回のハイライトである徳願寺のある寺町通りまでを繋いでおり、約1kmの長さがある。
家康が立ち寄って休息をとったと伝えられる法泉寺(現在は御堂などの建物は残っていない)をはじめ、この権現道の道沿いには浄閑寺や妙覚寺などこの界隈で見所となる古い寺社が軒を連ねている。
つまり、ここから怒涛の寺社仏閣オンパレードがスタートするということだ。
浄閑寺
権現道に入ったら、白く平らな敷石を道沿いに進んでいこう。
するとすぐに、右手側に浄閑寺と言う表札の付いたお寺が見えてくる。

この寺は、東京の芝にあり、徳川家の菩提寺でもある増上寺の末寺とのこと。

元々この場所には、室町時代の末期に現地の武士が信仰する観音堂が建っていたが、江戸時代に入った1626年に開基されたという。
これまでに何度も火災や津波を被災しているが、その度に構造を強化して再建されているらしい。
この寺の見所の1つが、参道だ。

行徳では珍しく、行徳街道から寺の入口に至るまで一筋の敷石で繋げられている。
このような光景を見られる寺は、行徳街道には他に存在しない。
行徳街道を歩く参詣客を積極的に誘導していたことが窺い知れる。
また、寺の門前にある六面塔も見所だ。

塔の側面には、「南無阿弥陀仏」という念仏のほか、天道・人道・修羅・畜生・餓鬼・地獄という6つの世界(六道)を示す文字が刻まれている。

これは、それぞれの世界で業によって輪廻転生を繰り返す全ての生き物(衆生)に対して、仏の加護を願うために作られたものらしい。
この寺では江戸時代に生きた人々の信仰の強さが感じられるだろう。
妙覚寺
浄閑寺から権現道に沿ってしばらく進む。
すると、右手側に次の寺である妙覚寺の裏門が見えてくる。

この寺は下総中山にある日蓮宗の中山法華経寺の末寺で、安土桃山時代の1586年に創建されたらしい。

実はこの寺の境内には、房総半島ではここにしかない大変珍しいものが存在する。
それが、このキリシタン灯籠だ。

一見するとどこのお寺の庭園でも見かけるような灯籠なのだが、ある特徴的な構造を持つことで知られている。
灯籠の中央下部をよく見ると、舟形の窪み彫りがある。

そして、その中にはマントを羽織って靴を履いたバテレン(神父)の姿が彫刻されているというのだ。
昔はバレないように靴の部分は土中に隠されていたらしいが、現在では認識しやすいように掘られており、靴の存在も確認できる。
ご存知の通り、江戸時代ではキリスト教は禁止されており、信者であることが発覚すると死罪になっていた。
そういった命の危険と背中合わせになったとしても、信仰を貫こうという隠れキリシタン(潜伏キリシタン)たちの強い意志がこの灯籠からは感じられるだろう。
ちなみに、キリシタン灯籠は裏門の近く、墓地の側にあるのだが、妙覚寺の境内の中を進むと本堂が見えてくる。

本堂から先を見ると正門があるので、次の寺に向かうために妙覚寺を出る際はこの正門から出よう。

法善寺
妙覚寺の正門を出ると、少し大きな通りが現れる。
この通りは今回の散策で重要な通りの1つで、この後も再度登場するので通りから見える周囲の景色を覚えておくといいだろう。
ちなみに、この通りを妙典方面に歩くと今回のハイライトになる徳願寺がある寺町通りに入れるが、反対の行徳方面は前回訪れたおかね塚まで続いている。
さて、妙覚寺の正門から通りを挟んだ向かい側に、次の寺である法善寺がある。

この寺は敷地が少し広いため、初めて訪問する場合は寺の入口の場所に迷うかもしれないが、敷地の入口付近に恒例の案内看板があるのでそれを目印にするといいだろう。
案内板が見えたら、その左側に続く小道を進んでいくと法善寺の境内入口にたどり着くことができる。

案内板には他と同じように寺の由緒と境内の見所が書かれている。

この寺は関ヶ原の戦いがあった1600年に創建されたらしい。
行徳でかつて栄えた製塩業と深い関係があったことから、塩場寺(しょばでら)とも言われているとのこと。
詳細は記載されていないが、海岸で精製した塩をこの寺で保管していたのではと考えられる。
参道を進むと本堂が見えてくる。

この本堂の鴨居にも、行徳寺町界隈の他の寺と同じように龍の彫刻が配置されている。

また、ぱっと見た感じではどこにあるかはわからなかったが、境内には四万十川の巨石や、豊臣秀吉が京都に建てた聚楽第に使われたものと同じ石が配置されているらしい。
なお、この寺では、本堂脇の松の下にある句碑が見所とのこと。

これは『奥の細道』を手掛けた俳人として知られる松尾芭蕉の百回忌を記念して、地元の俳人たちが建立したものらしい。

豊受神社
法善寺を後にして通りに戻ったら、右手側(妙典方面)へ進み、最初の十字路を右へ、次の十字路も右へ曲がる。
つまり、法善寺の境内を回り込むようにして進んでいく。
すると右側に鳥居が見えてくるが、その場所が豊受神社になる。

今回の散策では前編の序盤に訪れた湊水神宮以来の神社だ。
この神社の御祭神は豊受大神で、その祖父に当たる「国産み神」イザナギノミコトも祀られているとのこと。

また、この豊受神社は行徳寺町界隈で3年に一度10月に行われる本祭(通称:五ヵ町祭礼)でも、神輿が立ち寄る極めて重要な場所としても知られている。
詳しくはこの次に訪れる神明豊受神社で解説しよう。
寺町通り
豊受神社の参拝を終えたら、法善寺と妙覚寺が面した通りまで戻る。
通りに着いたら、右手側(妙典方面)へ1区画進む。
すると行徳街道に匹敵する大きな通りに出る。

すぐ目の前にある看板にもあるように、この通りこそが寺町通りになる。
そして、この看板のすぐ近くにあるのが、後程訪れることになる今回のハイライト、徳願寺だ。
ちなみに、行徳の寺町とは、本来はこの寺町通りを起点に拡大した領域とのこと。

通りの左右には大小様々なお寺が点在しているので、この寺町通りを散策するだけでも風情のある眺めが楽しめる。
また、この寺町通りは行徳街道と成田道を繋ぐ道としての役割も持っていたらしい。
さて、ここではまだ徳願寺には入らず、左手側に曲がって寺町通りを旧江戸川に向かって北上しよう。
神明豊受神社
寺町通りは途中道が少し細くなるが、さらに進んでいくと、行徳街道との交差点に辿り着く。

なお、この交差点には以前、成田道に入るルートを示す道標が置かれていたらしい。
行徳街道に出たら、右に曲がって道沿いに少し進んでいくと、次の訪問先となる神明豊受神社が左手側に現れる。

この神社はこの界隈(本行徳)の総鎮守になっているが、ここにも神社の由緒を紹介する案内板が置かれている。

案内板によると、先ほど訪れた豊受神社と同じく、この神社も秋の大祭で非常に重要な役割を担っているという。
というのも、この神明豊受神社こそが、大祭(五ヵ町祭礼)で神輿が担ぎ出されるスタート地点になっているからだ。
本殿の向かって左奥には大きな蔵があるが、ここに大祭で使用される神輿が保管されているとのこと。

大祭で神輿が辿るルートを簡単に解説しよう。
- 神明豊受神社で御霊入れの儀
- 稲荷神社に移動
- 本行徳地区と本塩地区を巡行
- 豊受神社で宮入
- 神明豊受神社に戻って終了
神輿を蔵から出したら、まずこの神明豊受神社で御霊入れの儀式を行う。
御祭神の神霊を神社の本殿から神輿に移すのだ。
神霊が宿った神輿は神社を出ると、行徳街道を少し進んだ先にある下新宿の稲荷神社に向かう。
稲荷神社を出た後は、本行徳地区を1丁目から4丁目まで順に巡り、本塩地区にある先ほど訪れた豊受神社に向かう。
神輿が豊受神社に着いたら、宮入の儀式を行う。
これは先ほどの御霊入れとは逆で、神輿に宿った神霊を神社に還す儀式になる。
儀式を終えた神輿は最後に神明豊受神社に戻り、次の大祭が開催されるまで蔵で保管されるという流れだ。
要するに、この神明豊受神社は、豊受神社や稲荷神社と共に大祭の進行になくてはならない重要な神社になっている。
ちなみに、この神明豊受神社の境内には、道路元標も配置されている。

行徳町の道は全てこの場所が起点になっていることを示しているため、この地域における神明豊受神社の重要性が道という観点からも窺い知ることができる。
徳願寺
神明豊受神社を後にしたら、行徳街道から寺町通りへと来た道を戻ろう。
すると、先ほども見かけた今回の散策のハイライトである徳願寺が見えてくる。

この寺は行徳寺町界隈で最大クラスの規模の領域を持ち、かつ、多くの見所を持っていることでも知られている。
入口の付近にある案内板を見ると、この寺が持つやんごとなき由緒についても解説されていた。

この寺は元々は埼玉県の鴻巣市にある勝願寺の末寺だった。
ところが、江戸時代になってまだ間もない1610年に、徳川家康の帰依によって徳川の「徳」と勝願寺の「願」の2文字を取って新たに徳願寺として名付けられたらしい。
要するに、徳川将軍家のお墨付きのお寺ということになる。
その格式の高さもあってか、この寺には様々な宝物が収蔵されている。
源頼朝の妻である尼将軍・北条政子が仏師の運慶に彫らせたといわれる本尊の阿弥陀如来像を始め、宮本武蔵の落款のある書や達磨絵、そして絵師の円山応挙が描いた幽霊画などだ。
ちなみに、この徳願寺は現在近所にある行徳小学校の誕生の地にもなっており、明治時代の初めにこの寺が仮校舎になったことから歴史が始まったという。
それでは境内に足を踏み入れよう。
正門から入って参道を進むと、山門、そして本堂を望む導線の先に絵になるような美しい光景が広がっていることに気付く。

ここでは四季折々の草花を楽しむことでも人気で、お十夜や大晦日では多くの地元民で賑わう。
僕が訪れた11月の上旬には鮮やかな紅葉が楽しめた。
木々で覆われた参道を抜けると現れるのが、威風堂々とした外観の山門だ。

山門の中を通ると、鬼気迫るような迫力のある仁王像が左右に鎮座している。


これらの仁王像は、元々本八幡にある葛飾八幡宮の山門(現在の随神門)に置かれていたものらしい。
明治期の神仏分離の影響を受けて、この徳願寺に引越しされたとのこと。
ちなみに、この山門は市川市の市指定有形文化財に登録されている。
山門を抜けると右手側に現れるのが鐘楼だ。

反るように空に向かって高くそびえるその佇まいには、この寺が持つ悠久の歴史と伝統を感じる。
鐘楼の隣りには観心堂と呼ばれるお堂がある。

ここには閻魔大王像や観音菩薩像などの寺宝が収められている。
また、毎年11月16日に寺宝「幽霊画」が一般公開されるが、この観心堂はその公開場所にもなっている。
観心堂の先には本尊である阿弥陀如来像なども収められている本堂が鎮座している。

ちなみに、この本堂の入口の上部、鴨居の部分には、他とは一線を画すクオリティの龍の彫刻が見られる。

実はこの龍の彫刻、行徳が誇る神輿師にして仏師でもあった後藤直光と浅子周慶ら4人の匠による合作だったとのこと。
道理でただならぬ雰囲気を持っていたわけだ。
龍の彫刻の近くには、徳川将軍家の家紋としてもお馴染みの三葉葵の御紋も配されているので、この神社の格式の高さを目の当たりにすることができる。
本堂の周辺にも風情のある建築物や彫像が見学できる。
下記は寺の事務所だと思うが、屋根のシルエットがとても美しい。

観心堂の裏では下記のような可愛いお地蔵さんの像が見られる。

また、その近くには墓参りの際に使用する柄杓や桶などの置き場所があるが、その入口前には藤棚が設けられている。

こちらは別日に改めて訪問した時の画像だが、4月の終わりから5月の初めにかけて美しい藤と本堂との組み合わせが楽しめる。
境内には他にも、身代観音堂や宮本武蔵の供養塔などの見所があるので、時間が許すならばじっくり見て回るのもいいだろう。
なお、徳願寺の入口付近にはこの周辺の地図が掲示されている。

この地図を見ると、成田山への巡礼者が辿っていた行徳街道、それから寺町通りを経由して、成田道に至るまでのルートが把握できる。
なお、この成田道の入口については次項で実物を少しお見せしよう。
妙典駅までの行き方
徳願寺の見学が終わった後はルートが2つに分かれる。
すなわち、ゴールとなる妙典駅に向かって帰るか、中台神輿店に寄り道して行くかだ。
というのも、今回の散策で最後に訪問する中台神輿店は、これまで辿ってきた行徳寺町界隈の中間地点に近い場所まで戻ることになるので、そこから妙典駅を目指すとなるとやや遠回りになるからだ。
徳願寺からなら最短ルートで妙典駅に辿り着けるため、もし散策に使える時間が限られる場合は、ここで散策を切り上げて帰路に着いてしまうのも1つの手になる。
次に向かう前に、とりあえずそういった方のために徳願寺から妙典駅への行き方を案内しておこう。
徳願寺の正門から寺町通りに出たら、道沿いに南東方向(旧江戸川とは逆方向)へ向かう。
すると、県道6号(バイパス通り)が見えてくるので、横断歩道を渡ってそのまま直進する。

バイパス通りから小路を1つ越えると、正面左にローソンがある。

実はこのローソンから左手側へ延びる道こそが、成田に向かう巡礼ルートの続き、「成田道」になっている。
行徳街道、続いて寺町通りを進んできた巡礼者は、ここで左に曲がって成田道に入り、新江戸川を渡って成田山新勝寺を目指すというわけだ。
ここまで歩いてきた道がまだ巡礼の旅の序盤だったことを考えると、昔の人はとても強い意志を持って成田山に詣でていたことが窺い知れる。
さて、成田道との分岐点を越えてさらに南東方向へ進むと、やがて東京メトロ東西線の高架が見えてくる。

高架に沿った道まで来たら、右折して少し歩けばすぐに妙典駅に辿り着ける。

なお、この妙典駅の駅前にはイオンがあり、周囲には飲食店も充実しているので、昼食がまだならここで食べてから帰路に着くのもいいだろう。(丸亀製麺もあるよ!)
いずれにしろ、ここでひとまず散策は終了となる。
お疲れさまでした〜
寄り道①馬頭観世音と内匠堀
…と言いたいところだが、あれは嘘だ。
実は時間が許すなら是非とも寄ってほしい場所がいくつかある。
ここからは真エンディングに向けて散策を最後まで続けていくことにしよう。
次の見所に向かうためにはまず、妙覚寺と法善寺に面していた通りまで戻る必要がある。
徳願寺の見学を終えた直後に来た道をそのまま1つ戻るといいだろう。
通りに入ったら、行徳方面へ戻るようにしてしばらく進む。
全行程の中間地点辺りまで戻ってくると、右手側に石碑とお馴染みの案内看板が見えてくる。

ここには馬頭観世音(馬頭観音)が祀られている。


案内板の由緒によると、観音様の裏には「嘉永7年(1854年)」という年号と「佐原飛脚問屋吉田氏」という建立者に関する銘が彫られているらしい。

飛脚問屋は、飛脚屋のほか、馬の売買や斡旋をする馬喰(ばくろう)や、馬の飼い主なども束ねていたので、商売繁盛や無病息災を願ったものなのだとか。
ちなみに、この馬頭観音のある通りは暗渠になっており、道の下には内匠堀(たくみぼり)という灌漑用水路が流れている。
鎌ヶ谷の囃子水を水源にしており、浦安の当代島まで水路が引かれており、これによって市川と浦安の農業が発達したという経緯がある。
なお、内匠堀の改修を行った際、この馬頭観音の下から多数の馬の骨が見つかったという。
愛馬の供養を行った跡とされているが、ここからも行徳の歴史の深さが垣間見える。
寄り道②行徳神輿ミュージアム(中台神輿店)
馬頭観音をお参りしたら、目の前の十字路を左折し、バイパス通りのある南方へ進もう。
しばらく進むと、右手側の上方に、今回の記事のサムネにも採用した神輿のように特徴的な形をした屋根付きの塔が見えてくるだろう。

その建物こそが今回の行徳寺町界隈巡りの最終目的地、中台神輿店だ。

この中台神輿店は、前編で紹介した後藤神輿店や浅子神輿店と共に行徳の神輿産業を支えてきた象徴的存在で、現在も営業を続ける行徳で唯一の神輿店になっている。
神輿店の正面に回ると、次のような威風堂々とした立派な佇まいが拝める。
実はこの中台神輿店の敷地内には、行徳が育んできた神輿産業を実体験できる「行徳神輿ミュージアム」が併設されている。
先ほどの建物はその入口というわけだ。
開館日時・時間は、日曜・祝日以外の9時から17時で、入口に開館時には下記のような看板が置かれる。

看板に記載されているように入場料は無料なので、気軽に見学させてもらうといいだろう。
それでは、行徳神輿ミュージアムの暖簾を潜ろう。

入口を通ると、正面に中台神輿店が手掛けた立派の江戸神輿が鎮座している様子が見える。

神輿本体の社を模した部分はもちろん、上部に飾り付けられた鳳凰の彫刻まで極めて精緻に彫られているので、伝統工芸品としても特級品の風格を備えている。
ミュージアム内の展示物は基本的にお触り禁止だが、近くまで寄って見ることはできるので、細部までじっくり観察させてもらうといいだろう。
入口から左側の様子はこんな感じ。

鳳凰や五重塔の彫り物のほか、神輿師が製作に使っている道具や神輿の製作工程を解説するパネルなども展示されている。

右側の様子はこんな感じ。

別の神輿や、細かく分けた神輿のパーツが展示されている。

右側の奥には前編紹介した後藤神輿店が手掛けた彫り物も置かれており、今となっては貴重な作品を鑑賞できる。

なお、ミュージアム内にはTシャツやトートバッグなどオリジナルグッズの販売ブースも設けられている。

グッズを購入したい時など入用の場合は、館内の右奥に呼び鈴のボタンが置いてあるので、それを押してスタッフの方を呼ぶといいだろう。
ちなみに、この行徳神輿ミュージアムの裏には、中台神輿店の神輿師たちが作業を行う工房がある。

タイミングが合いさえすれば、神輿師たちが実際に神輿を修理している様子を近くで見学することができる。
今となっては行徳では他の所で見ることができない貴重な光景なので、ここまで来たら是非とも作業の様子を見せてもらうといいだろう。
真エンディング
ミュージアムと工房の見学が終わったら、あとは帰路に着くだけ。
ただ、この中台神輿店は行徳駅と妙典駅のほぼ中間地点にあるため、どちらの駅に向かうにしても少し長く歩くことになる。
やや妙典寄りの位置にあるので、先ほど触れた成田道の入口にも寄ることも考えると、やはり妙典駅を目指すのがおすすめだ。
まずは行徳神輿ミュージアムの入口から南に進んでバイパス通り(県道6号)に出る。
あとは左折して妙典方面に向かって進み、寺町通りとの交差点を目指そう。
ここから先は「妙典駅までの行き方」で先述したルートと同じなので、迷うことなく、かつ、成田道の入口も見た上でゴール地点の妙典駅まで辿り着ける。
妙典駅に着いたら、今度こそこの行徳寺町界隈巡りは完了だ。
ここまでお付き合いいただいたことを感謝する。
本当にお疲れさまでした!
総評
今回の記事では、前回から引き続いて2回に渡って行徳寺町界隈の見所を紹介してきた。
僕は中学の時の校外学習で寺町通りや徳願寺までは一度訪れていたが、まさかここまで深い歴史と伝統がこの地にあるとは当時は思ってもみなかった。
改めて自分が生まれ育ってきたかつての故郷の魅力を再発見できたと思う。
また、それと同時に、17年以上前のオールドデジタル一眼レフカメラが十分に現役で取材に使えたことにも驚いた。
実は、この行徳寺町界隈巡り(「寺の小路コース」)は、市川市観光協会が薦めている3つの散策コースの1つにすぎない。
他には、本八幡駅周辺を歩く「下町散策コース」や、市川駅周辺を歩く「万葉の歴史コース」というものがある。
これら残りの2コースに関しても、今回使ったOLYMPUS E-30で近い内に取材したいと思っている。
そう遠くない内に散策記事を公開していくつもりなので、ぜひ乞うご期待いただきたい。
