千葉県市川市の南方に位置する街、行徳。
現在では首都圏に勤める方のベッドタウンとして人気のほか、様々な国籍の外国人が集まる多国籍タウンにもなっている。
そんな行徳だが、実は江戸時代以前に創建された古い寺社仏閣が数多く残る界隈が存在することはご存知だろうか?
その界隈のことを行徳寺町と呼ぶ。
今回の記事から前編と後編の2回に分けて、奥深い歴史を感じられる行徳寺町の魅力を紹介していく。
前編では、散策ルートの前半部分である行徳駅から常夜灯公園までの見所をご案内する。
知られざる行徳寺町の魅力を楽しんでもらえれば幸いだ。
また、2000年代の後半に製造されたオールドデジタル一眼レフが描き出す趣のある画像にもぜひ注目してほしい。

行徳寺町とは?
行徳寺町とは、行徳の北側に広がる古い寺や神社が点在する界隈を指す。

具体的には、東京メトロの行徳駅と妙典駅を繋ぐ区間の北側に位置しており、江戸時代のメインストリートだった行徳街道やその小路を中心とした地域が該当する。
現代人の認識では、バイパス通り(県道6号)と旧江戸川に挟まれた行徳北側のエリア、といった方がより分かりやすいかもしれない。
なお、今回ご案内する行徳寺町の界隈は、市川市観光協会が定めている散策コースの1つとしても紹介されている。
上記に載せた観光協会の公式サイトでは、コースマップのダウンロードも可能なので、散策を始める前に入手しておくといいだろう。
成田山への参詣客で栄えた町
かつて行徳寺町は、江戸から成田山への巡礼者が訪れる巡礼の旅のスタート地点として多くの人気を集めていた。
参詣する江戸の町民たちは、まず船に乗って新川や小名木川を経由して旧江戸川を下り、寺町の北中央にある常夜灯の辺りにあった船着場で行徳に着港する。
行徳で旅立ちの準備と休息を終えると、巡礼者たちは行徳街道を経由して成田街道に入り、成田山にある新勝寺を目指す、という流れだったらしい。
つまり、江戸時代に成田山への巡礼者が多く立ち寄った行徳寺町の界隈は、宿場町として大いに栄えていたのである。
各所に江戸時代以前に創建された古い歴史を持つ寺社仏閣が多く残されているほか、現在はもう営業していないが、かつては巡礼者が利用した飲食店や旅籠も相当数存在していたらしい。
エリア内に伊勢宿や下新宿などといった番地名が残っていることから、当時は成田詣での参詣ルートとしてかなりの賑わいを見せたのだろう。
神輿の一大産地としても有名
また、かつて行徳寺町は神社の祭りなどで使われる神輿の製造で栄えたことでも知られている。
往時の界隈には、浅子神輿店、後藤神輿店、そして中台神輿店という、神輿の製作を行なっていた大きな工房が3軒存在した。
一般的な祭りで見かける江戸様式の神輿は全国に約4000基あるが、なんとその約半数がこの行徳寺町にあった神輿工房で製作されたという。
これらの神輿工房は平成の中期頃まで営業を続けていたものの、現在は中台神輿店の1軒だけを残すのみとなってしまったが、神輿製造の技術は今も脈々と地域に受け継がられている。
行徳寺町の界隈を歩いていると、その名残と伝統を確かに体感できる。
この場所に訪れたら、古い寺や神社を巡り歩くついでに、神輿産業によって栄えた町のレトロな雰囲気も楽しんでほしい。
今回使った機材
行徳寺町の界隈を取材した今回の撮影では、使用する機材にもいつもとは少し違ったものを用意した。
それが、OM SYSTEMの前身であるオリンパス(OLYMPUS)が2008年に発売したフォーサーズ(4/3)規格のデジタル一眼レフカメラの中級機、「E-30」だ。

フォーサーズ一眼レフ不遇の名機「OLYMPUS E-30」
OLYMPUS E-30は、僕がいつも愛用しているメインカメラのOM-D E-M1 Mark IIIにとって、ご先祖様的な存在のカメラになる。
このカメラはもう15年以上も前に発売された、いわゆる「オールドデジタル一眼レフ」の部類に入る。
発売当時は販売台数があまり振るわず、不遇のカメラとなってしまったが、真面目にしっかり作り込まれた良作だと僕は思っている。
画素数は約1230万しかなく、実用に耐えうる高感度もISO 800程度までだが、設定を追い込んで撮影と現像を丁寧に行えば、2025年の現在でも十分に通用する画質が得られる。
また、このOLYMPUS E-30は、現在のOM SYSTEMのミラーレス一眼でもお馴染みである「アートフィルター」が初めて搭載された機種としても知られている。
今回は、このE-30にキットに付属していた標準ズームレンズ「ZUIKO DIGITAL 14-54mm F2.8-3.5 II」を主に装着して、行徳寺町の散策撮影を行なった。
このレンズもかなりの業物で、オリンパス純正のフォーサーズレンズのミドルクラスである「HG(ハイグレード)」に属しており、現代のOM SYSTEMのPROレンズに迫る描写力を備えている。
E-30入手の経緯と採用を決めた理由
縁あって僕は、この行徳寺町の取材に出掛ける少し前、このE-30レンズキットの未使用品を入手する機会に恵まれた。
どこかの倉庫で未使用のまま長らく保管されていた個体をYahoo!オークションで落札したのだ。
15年以上前のカメラとは思えないほど状態が非常に良く、画質や機能も十分に実用的だったので、今回の撮影に実戦投入してみようと思った次第である。
加えて、僕は2007年にデジタル一眼レフでカメラデビューしたので、写真を始めた時に近い感覚で撮影が楽しめると思ったことも、取材への採用を決めた理由だ。
晴天の空が見える条件では「オリンパスブルー」と称された濃厚で美しい青色も堪能できる点もとても気に入っている。
掲載画像についての注意
なお、今回と次回の記事に掲載した散策画像の大半には、このE-30で撮影した画像を載せている。
撮影時の記録はRAW形式で行い、現像にはDxO PhotoLab 8を使っているが、印象が変わらないように、同時記録したJPEG画像を元にしてなるべくカメラ本来の仕上がりを忠実に再現している。
オリンパスブルーも含めてE-30本来のものに近い仕上がりが楽しめるはずだ。
ただし、一部の画像については、メイン機のOM-D E-M1 Mark IIIを使って別日に撮影したものも掲載している。
区別しやすいように、E-30で撮影した画像の外枠には星印(★)を添えておくので、画像を鑑賞する際の指標にしてほしい。
行徳寺町エリアへの行き方
まずは、東京メトロの行徳駅から今回の散策の舞台になる行徳寺町エリアへの行き方を解説する。
なお、市川市観光協会が公開しているコースマップでは、今回の散策でゴール地点となる妙典駅からスタートする形になっているが、どちらから出発するかは好みで決めてもらうといいだろう。
ただ、行徳寺町は妙典側に向かうほど見所が一気に増えていく印象だったので、本記事では行徳駅からスタートする逆回りのルートで進めていく。
所要時間は主な見所を散策するだけなら2時間、寄り道したり撮影にも時間をかけたりしたい場合は3〜4時間ほどを見積もっておくといい。
それでは、行徳寺町界隈の散策を始めるとしよう!
行徳駅の改札を出たら、左手側にある駅の北側へ抜ける。

行徳近郊緑地とは完全に逆方向になるので、前回の行徳近郊緑地に関する記事を読んでくれた方は行き先の方向を間違えないよう特に注意してほしい。
駅の前を南北に通る行徳駅前通りを北へしばらく進むと、県道6号(通称「バイパス通り」)という大きな通りに出る。

この通りを渡り、さらに北へ少し進むと右手側に「行徳ふれあい伝承館」への案内板が見えてくる。

この案内板の矢印が示す先の道に入ると行徳寺町のエリアに入ることになる。
押切稲荷神社
ただ、行徳寺町界隈の散策を本格的に始める前に是非とも寄ってほしい場所が2ヶ所ある。
その1つが、押切稲荷神社だ。

行徳駅前通りと「行徳ふれあい伝承館」への案内板がある通りの角にあるので、手軽に訪問しやすいだろう。
なお、行徳寺町の界隈にある古い寺社仏閣には、下記の画像にあるような比較的新しい作りの木製案内板が設置されている。

案内板にはその寺や神社に関する由緒や見所が書かれているため、境内を観光する前に確認しておくことをおすすめする。
さて、この押切稲荷神社の本殿には、鎌倉時代の初めである1197年に京都で作られた「十一面観世音菩薩像」が御尊体として祀られている。

350年前ほどにこの場所に鎮座したが、度重なる江戸川の水害によって本殿が被害を受けたため周辺の寺を転々としていたという。
時は流れて大正時代の1913年にやっと返還が実現し、再建された本殿への安置が叶ったということらしい。
本殿の鴨居には精緻な龍の彫刻が配置されているが、こういった龍の彫刻は寺町の他の寺や神社にも多く見かける。

本殿の脇には、おそらく恵比寿様だと思うが、顔が彫られた御神木「千寿銀杏」が立っている。


秋には見事な紅葉を見せてくれるらしい。
ちなみに、この押切稲荷神社の境内には、富士山への信仰によって作られた「富士塚」も置かれている。

江戸時代以前、富士山は女人禁制だったこともあり、女性や遠方で実際に行けなかった人々でもご利益を得られるようにと、富士山から持ってきた石を納めて作られたらしい。
湊水神宮
押切稲荷神社の参拝を終えたら、境内を出て行徳駅前通りを北上しよう。
すると「行徳街道」という道路の案内板が見えてくるはず。

そう、この通りこそが江戸時代に成田山への巡礼客で栄えたかつてのメインストリートである行徳街道だ。

この行徳街道を東側、妙典方面へしばらく進むと行徳寺町界隈のハイライトとなる見所が多く存在している。
だが、ここではまだ行徳街道へは入らず、横断歩道を渡ってさらに北上しよう。
すると旧江戸川に面した場所に出る。
突き当たりで左側を向くと、湊水神宮という小さな神社が見えるだろう。

正面に回るとこんな感じ。

この神社の脇にも案内板が配置されている。

元々この神社の御祭神は豊漁と海難除けの守り神として祀られていた。
江戸時代には地元民が6月の末日に子供の水難除けと水泳上達を願ってお参りをする習慣があったらしい。
その名残で、現在では毎年6月の最終土曜日に大祭が催されており、神社の周辺には多くの露天商も出店するため、夜は大きな賑わいになるという。(※2025年は6月28日)
川に面した町だからこそ見られる人々の生活の営みと伝統を実感できる。
光林寺
湊川神宮を後にしたら、「行徳ふれあい伝承館」への案内板があった場所まで戻ってこよう。

案内板の矢印に沿って進んでいくと、光林寺というお寺が右手側に見えてくる。

このお寺には案内板はなかったので、見所となるようなものは取り立ててないのかもしれない。
しかし、入口から本堂に至るまでの参道がとても趣深い。

本堂自体もしっかりとした立派な作りのため、行徳寺町巡りを始める最初のお寺としてはちょうどいいだろう。
おかね塚
光林寺を出たら、案内板に沿って道を東に向かって移動しよう。
すると大きく複雑な分岐に出てくるが、右手側を見ると、仰々しい石碑を備えてお墓のようなものがあることに気付く。

これはおかね塚という史跡らしい。
おかねと言っても、お金のことではなく、「おかね」という遊女の名前らしい。
この塚(供養塔)について、後ほど紹介する市川市行徳ふれあい伝承館の方に聞いたところ、次のような経緯があったらしい。
(由緒は石碑にも書いてあるが、所々劣化進んでいて読めなかった…)
曖昧な所が少しあるが、何でも以下のようなお話だとか。
かつて吉原におかねという遊女と、客として彼女の元を通っていた船頭(または商家の息子)がいた。
その船頭はこの行徳に住んでおり、おかねの年季(遊女としての契約期間)が明けたら夫婦になるという約束をしたという。
しかし、ある時を境に船頭の通いがぱったりなくなった。
時が流れて年季が明けた後、おかねは船頭に会いに行徳を訪れたが、彼は既に彼女のことを忘れて別の女性と所帯を持っていたのだ。
絶望したおかねはそのまま江戸川に身を投げてしまった。
その後、おかねのことを不憫に思った地元の住民たちによって供養のための塚が作られたという。
…何と悲しい話なのだろう。
ちなみに、僕が訪問した際、ゲートの中を見ると一匹のネコ様がおられた。

この周辺に住んでるお方だと思うが、おかねの墓守も務められているのかもしれない。

徳蔵寺
おかね塚で手を合わせた後は、2本の道が隣接して平行する小路を東側に進もう。
しばらく進むと、立派な塀で囲まれたお寺が左手側の角に見えてくる。

この寺は徳蔵寺という。
入口にある案内板には、創建は1575年、つまり織田信長が活躍した安土桃山時代まで遡るという。

境内には弘法大師空海の像を始め、曼荼羅や鉄眼版一切経など密教に関する宝物を所蔵されているが、度重なる江戸川の水害によって歴史的資料は乏しいらしい。
入口の付近に置かれた常夜灯には、かつて行徳街道にあった旅籠12軒の内の1つ、淡雪楼の名前が見えるほか、安政の大地震の様子も記録されているという。

本堂の前には下の画像のような真新しい建物も建てられている。

これは鉄眼版一切経など仏教の経典を収める経蔵で、2024年に建立されたばかりのものらしい。
鉄眼版一切経とは、江戸時代に鉄眼禅師によって中国の経典から復刻して開版された経典群のこと。
1行20文字、20行から構成されており、現在の原稿用紙や明朝体の基準になったらしい。
なお、この徳蔵寺の本堂の鴨居にも立派な龍の彫像が配置されている。

権現道
徳蔵寺を出て通りを北上すると、右手側に白い平板の敷石を採用した特徴的な小路が現れる。

この小路のことを権現道という。
権現という名称が付く通り、この小路には徳川家康(東照大権現)に関する伝承が残されている。
何でも、家康公が鷹狩りで東金に向かう際にこの小路を通ったとされるのだ。

真偽の程は定かではないが。
いずれにしろ、行徳寺町ではこの権現道に沿うようにして多くの寺が存在しており、その一部には家康公に関する言い伝えも残っている。
なお、この権現道に関しては、後編でも再登場するので詳しくはそこで改めてご案内する。
旧後藤神輿店
権現道への分岐では小路に入らず、ここではそのまま北上しよう。
すると少し幅の広い道路、旧メインストリートの行徳街道に出る。
行徳街道を道に沿って少し東側へ進むと、やがて右手側に1軒だけ周囲とは明らかに様相の異なった古い建物が見えてくる。

建物自体に年季が入っているので目立つが、左隣に郵便ポストが置かれているので、すぐにそれと分かるだろう。

断定はできないが、おそらくこの建物が旧後藤神輿店なのだと思う。
「断定はできない」というのは、この先に訪れた市川市行徳ふれあい伝承館で聞いても、由緒に関する正確な回答が得られなかったからだ。
後藤神輿店は、かつてこの界隈で栄えた3大神輿店の1つで、平成の初め頃まで営業していたらしいが、神輿製作の依頼が少なくなったことを契機に閉業してしまったらしい。
事業自体はもう行ってはいないが、建物の権利自体は神輿師の親族が所有しているため、資料館として作り替えたりなどができない模様。
いずれにしろ、この建物が後藤神輿店の跡であろうがなかろうが、行徳街道や寺町の歴史を伝える貴重な建造物であることに変わりはない。
なお、この後藤神輿店に所縁のある品については、この後訪れるいくつかの施設で度々見かけることになる。
追記(2025/5/9):旧後藤神輿店で確定!
本八幡にある市川市観光協会に確認したところ、この建物は後藤神輿店だったものに相違ないという回答を得られた。
行徳街道にあるせっかくの伝統的な建築物なので、このまま風化を待つよりも、可能ならばこの後に訪れる浅子神輿店のように何らかの形で地域の振興に役立ててもらいたいところだ。
市川市行徳ふれあい伝承館(旧浅子神輿店)
旧後藤神輿店と思われる建物から街道を沿ってさらに東へ進もう。
行徳街道はこの辺りに差し掛かると、江戸時代や明治時代から存在すると思われる古い建物を度々目にすることになる。
途中蛇行する街道を少し進むと、やがて左側に2階建ての古い日本家屋が現れる。

現在この建物は市川市行徳ふれあい伝承館と呼ばれているが、実はこれこそが浅子神輿店の店舗兼工房だった場所なのだ。

後藤神輿店と同様、浅子神輿店も行徳寺町界隈の神輿産業を担った3大神輿店の1つで、創業は室町時代の末期にまで遡るらしい。
浅子神輿店の店主となる神輿師は代々「浅子周慶」を襲名していたが、16代目までおり、2007年まで…つまりつい最近まで500年以上に渡って営業を続けていたという。
最後の浅子周慶になった16代目は女性の方で、15代目だった夫から工房を引き継いだ後も事業を続けたという。
2007年に彼女が急逝した後、継承者のいなかった浅子神輿店は閉業となり、2009年に神輿店の建物はご遺族によって市川市に寄贈されたとのこと。

現在の建物は昭和初頭の1929年に上棟されたものだが、2010年に国登録有形文化財として登録され、現在は神輿産業の伝統を伝える資料館として営業している。
市川市行徳ふれあい伝承館の中に入ると、15代目の浅子周慶が手掛けたという立派な江戸神輿が鎮座している様子が見られる。

これは神輿の所有者の方が伝承館のために貸し出しているものらしい。
ちなみに、下記に掲載した写真の女性が最後の浅子周慶だった16代目とのこと。

夫から引き継いだ神輿製作の技術を自分の命が続く限り後世に伝えていくという強い志と優しさが写真からも感じられた。
館内には歴代の浅子周慶が手掛けた彫刻を始め、関連する資料も数多く展示されていた。



館内の奥には先ほど紹介した後藤神輿店が手掛けたと思われる神輿や解説資料も展示されていた。

最盛期は全国にある江戸神輿の約半数をこの浅子神輿店と後藤神輿店で手掛けていたらしい。
また、浅子神輿店では、後藤神輿店と同様、神輿だけではなく、寺にある仏像や仏具の製作も多く手掛けていたという。
館内には製作を担当した履歴の一覧も展示されているが、近隣の町の寺はもちろん、成田山新勝寺などの古刹や、兵庫県や北海道の寺にも納品をしていたらしい。

明治以前から全国規模の商いをしていたということなので、浅子神輿店の事業規模の大きさに圧倒された記憶がある。
格が違うとはまさにこのことだろう。
ちなみに、館内には神輿産業に関する資料以外にも、行徳の歴史を学べる資料も展示されている。

館内に常駐するスタッフの方々もとても優しく、浅子神輿店や行徳の歴史に関することを丁寧に解説してくれるので、行徳のことを学ぶのにこの伝承館はおあつらえ向きの施設だ。
僕も以前住んでいた故郷にこれほどまでに濃厚な歴史があったことにただただ感心させられていた。
休憩所
なお、街道を挟んだ伝承館の向かいには、無料の休憩所が設けられている。

地元民が利用するバス停の後ろにあるが、内部には休憩できるスペースが用意されている。

行徳寺町の散策で歩き疲れたら立ち寄ってみるといいだろう。
ここは食事処としても営業しており、うどんや牛丼などの軽食もいただけるので、ここで昼食を済ませるのもおすすめだ。

また、建物の裏には自動販売機やトイレも完備されているため、単に休憩場所としてだけ利用する場合にも使い勝手が非常にいいだろう。

常夜灯公園
市川市行徳ふれあい伝承館で神輿産業と行徳の歴史を学んだら、行徳街道を先へ進もう。
するとすぐ、左側に続く道の先に大きな灯籠のようなものが見えてくるので、その脇道に入って灯籠を目指す。

灯籠に近づく、遠くからでも感じられたようにかなりの大きさがあることに気付くだろう。

この灯籠こそが、今回の散策でハイライトの1つになる常夜灯なのだ。

階段で堤防に上がって常夜灯に近付くと、そこからは江戸川の景観を一望にできる。

この常夜灯は江戸時代の後期(1812年)に、成田詣でに訪れた巡礼者たちによって航路の安全を願って建てられた。
目前にあった船着場から成田山に向かう参詣客は乗り降りしたという。
常夜灯は現在、市川市指定の有形文化財として登録されており、行徳を代表するシンボルになっている。
ちなみに、常夜灯のある旧江戸川の土手は常夜灯公園として開放されており、市民にとって憩いの場になっている。

屋根付きの休憩所なども設置されているので、この場所で江戸川の景観を楽しみながら弁当をいただくのもおすすめだ。
次回予告
行徳寺町界隈の散策はまだ続く。
この常夜灯公園まで来た時点で、やっと行程の半分というところだろうか。
後編となる次回は、行徳街道、そして権現道に戻り、沿道にある寺や神社を巡っていく。
史跡としても魅力的な寺社仏閣が次々と登場するので、寺町廻りとしてはここからが真骨頂になる。
また、終盤では現在「行徳神輿ミュージアム」としても営業し、行徳で現存する最後の神輿店としても知られる「中台神輿店」にも訪れる。
ぜひ乞うご期待いただきたい。
追記(2025/5/6):後編公開
続きとなる行徳寺町界隈巡りの後編を公開した。
後編はこちら↓
ぜひ本記事と合わせて楽しんでほしい。